ロディニアのアニメブログ

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「天空の城ラピュタ」について思うところ

天空の城ラピュタ」について

画像出典元「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ



「ある日、少女が空から降ってきた…」

 

伝説の天空に浮かぶ城「ラピュタ」……少年パズーと少女シータは海賊ドーラ一家、軍隊、特務機関とラピュタをめぐる争いの中に身を投じていく……。

 

少女が空から落ちてくる。なんと信じられない導入なのか。だが、そこに奇跡は隠されていた。より感動的に伝わるように少女がつけていたネックレスの宝石が輝いたと思ったら少女の体がゆっくりと降下していく……

 

天空の城ラピュタ」は、宮崎駿監督の長編アニメ映画であり、王道の冒険活劇で、見ているとワクワクするとても魅力的な作品である。また、この作品を知らなくても呪文「バルス」はツイッター(現X)などで見かけたことがあるのではないか。

地上波のテレビ番組でこの呪文を発するタイミングで「バルス」とツイートする企画を考案した者がおり、皆で実践し、トレンド入りしたことがあった。

 

私は幼稚園の時から見ているが、数年毎に定期的に見るといつでもハラハラ、ドキドキ、ワクワクした気持ちで見ることができる、これぞ冒険ロマン! な作品である。

 

 

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

少年は空を見上げる、そうすると空中をゆっくり落ちてくるものがある。一人の少女。そう、一人の少女がゆっくりと落ちてくる。シータだ。それを受け止めたのが少年パズーであった。

パズーの住む「スラッグ渓谷」は(「スラッグ=鉄や錫(すず)を精錬した時の残りカスのこと」であり)、資源が枯渇しているのだ。栄えていたころの面影もなくなり穴だらけで、それでいて採掘した鉱物を運ぶ鉄道が張り巡らされている。過去の遺物が残っているが、実はとても貧しい街なのだ。その街で奇跡が起きる。

その街で暮らすパズーは渓谷の上にある実家で早朝にトランペットを吹くのだが、その時に射してくる朝陽がとても奇麗であり、その輝きがこれから何かが起きるという予感を視聴者に感じさせ、粋だと思う。

 

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」


パズーとシータは黒服の男たちに追われ、彼らから逃れるために地下の坑道に入ったのだが、その時にパズーはシータに目玉焼きパンを分けてあげる。目玉焼きのテカリが美味しさをそそるジブリご飯だ。ジブリに出てくる食べ物は、本当に美味しそうに描かれている。食べ物が生きる上で不可欠だと訴えているかのように。同監督の作品「ハウルの動く城」のベーコンエッグなどは圧巻だと思う。卵の白身のトロみが、見ていて絶品なのだ!

 

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

このシーンの二人で分け合う「半分コの目玉焼き」が二人合わせて一つになるというトランプのワンペアみたいな二人の関係を表しているように思われる。ワンペアになるとは個々でいるより特別な関係で、引き離すことも難しくなる。さらにスリーカード、フォーカードとより強くなる可能性がある。二人はこれからも仲良しですって、こうして生きていくような、ロマンスにも見て取れてなんとなく頬が緩むような気がする。ニヤニヤしてしまう(笑)

 

 

ポム爺さん 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」


ポム爺さん

 

坑道で会ったポム爺さんはパズーの知り合いであり、彼の祖父がラピュタ人のことを言ったと語る。もしかするとポム爺さんはラピュタが忘れられた存在ではないことを証明しているのではないかと思う。ひょっとしてポム爺さんはラピュタ人の末裔ではないか? だから飛行石の話を知り、本物の飛行石に驚き、ラピュタ人のことを話したのではないか? と。

 

画像出典 岡田斗司夫プレミアムブロマガ『天空の城ラピュタ』解説:3 ...

 

坑道の出口でパズーが手を伸ばし、シータがポム爺さんからパズーへと託されるシーンがある。これは古いラピュタ人から新しい若い少年へとラピュタの姫君が預けられるというパズーとポム爺さんとの対比を表しているのではないか? また、それは新しい未来を担うべき少年へと託される、古いしきたりからシータが解き放たれるということを意味しているのではないか。それと同時にシータには守られるものから自立したことにより自分の行動に責任が生じることとなり、それを守るのがパズーの役目であることのように思える。パズーの背後から光が差し込むことにより、それをはっきり予感させているように思える。

 

 

パズーはなぜ金貨を捨てなかったのか?

パズーが金貨を渡され、失意のまま家に帰るシーンがある。途中で転んで、金貨をばらまいてしまい、拾って投げ捨てようとするのだが、こらえて弱々しく家へ入ろうとする。私が子供のころ初めて見たときは、投げ捨てるなんてなんてもったいないことをするんだと、もったいないという気持ちが強かったのだが、さすがに年齢を重ねるにつれて「そんなシーンじゃないよ」と分かってきたのだ(笑)

 

このシーンの意図するところは、シータを助けられなかったという己への無力感、シータを助けると自分に誓ったのに、自分の助けを必要としないとシータが選んだことだからと落ち込んだ絶望、それは、パズーからするとシータの裏切りにも似た行為なのだ。そしてそれを割り切ろうとする心と、貧乏暮らしの自分にとっての金貨の価値があまりにも大きいこと、それらに揺れ動く心からなのではないか? いや、ラピュタを見つけるという父との夢を達成できないことへの絶望、初めてのシータへの恋の終わりへの絶望感、自分の人生への絶望感があったからではないか? しかし、父の無念を晴らすため、努力家のパズーは生きなければならない……また金貨を投げ捨てなかったことは、シータの運命あるいはシータとの運命を投げ捨てなかったことと対になっているのではあるまいか。それ故の行動ではなかったのではなかろうか? 

 

「40秒で支度しな!」

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

これは、ドーラがパズーを仲間に引き込む時にシータを助ける覚悟があるのか訊いてから言う言葉だが、こんなにワクワクするリベンジがあるだろうか? ムスカから受けた屈辱を晴らす時が来たのだ。パズーはシータを助けたくて、家にも帰らない覚悟でドーラ一家に入っていくのだ!

 

パズーの父と母

パズーの家の壁には冒険家であるパズーの父親の飛行船にそれとパズーの父親が撮ったラピュタの写真があるが、それとそっくりな飛行船が存在している。アルベルト・サントス=デュモンの飛行船だ。おそらくその船がこの作品のモデルなのだろうと思う。アルベルト・サントス=デュモンはブラジル生まれで、ヨーロッパ航空機発明のパイオニア的人物である。18歳のときに父親が仕事中に落馬し骨盤を骨折、治療の甲斐なく他界した。実家のコーヒー農園経営が不可能になったため、家族で祖先の国であるフランスに渡りそこで技術を身に付け、飛行船にヨーロッパ発で、ヨーロッパ初の初期の飛行機の発明、さらに未完に終わったもののヘリコプターも開発していたという。

パズーの家の写真棚 画像出典「空中庭園と幻の飛行船」



パズーの家の写真棚 画像下にパズーの母親と思われる写真がある。

パズーの母親と思われる写真 画像出典「空中庭園と幻の飛行船」

 

ラピュタとロボット

なぜ「ラピュタ」では戦闘用ロボットのデザインはわかるが、庭師のロボットまでがまがまがしい戦闘用ロボットと同じデザインなのだろうか?

日本では少し前からペッパーくんなどのかわいらしいロボットが接客のお手伝いをしている。

画像出典「SoftBank Robotics]

 

Pepperくん

人間は、温かみのあるどこか柔らかさのあるものを自分の周りに置きたがるものであるロボット犬アイボもそうであろう。一体ラピュタ人はどんな感覚を持っていたのだろう?

 

アイボ 画像出典「リクルートワークス研究所」

ラピュタの戦闘用ロボット 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

ラピュタの庭師ロボット 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

もしかしたら、古代ラピュタでは争いが絶えず、それ故におとなしい庭師ロボットも時々戦闘に参加していたのかもしれない。ラピュタ人にとってのボディーガードだったとも考えられる。確かにラピュタのオープニングでたくさんの島が空を飛んでいる姿が見られる。それぞれの島に王がいて、常に争いがあったのかもしれない。

 

 

ラピュタ」を見つけることに挑んだパズーの父親のように、現実でも人と違った人生をおくったり、不可能を可能にしてきた人たちがいる。そこには、挫折を乗りこえるための心の戦いや支えがあったのではないかと思う。そんな心の助けとなった言葉を、少し記したいと思う。

人は誰もがどう生きたらいいか迷うときがあるかもしれない。もしも人生に迷ったとき、役に立ってくれると嬉しい。

 

人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって達成された。

――ビル・ゲイツ ――― アメリカの実業家、マイクロソフト共同開発者

 

道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。

――漫画ドラえもんドラえもん)――― 藤子・F・不二雄

 

自分の信じる通りやってごらん。でもなあ、人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても、誰のせいにもできないからね。

――「耳をすませば」――― 月島靖也(せいや) 主人公、雫の父親 

 

 

科学の恐ろしさとラピュタ

ラピュタに搭載されている兵器を、『旧約聖書』のソドムとゴモラを焼き払ったという「天の火」やインドの民族叙事詩『ラーマヤーナ』の「インドラの矢」だとムスカは作中で言っている。以上の兵器は、とてつもない火力をもつ武器で、かつて古代に核兵器が存在したと言われた伝説からきている。

堀越二郎の半生を描いた「風立ちぬ」で彼は零式艦上(れいしきかんじょう)戦闘機、通称『零戦』を設計した。でも、発達した科学は兵器として戦争に利用される、と宮崎駿監督は登場人物カプローニに言わせている。ラピュタでも、ラピュタ人の発達しすぎた科学によってラピュタ人自らが滅ぶ原因となったのだと、「天空の城ラピュタ」の頃から宮崎駿監督は科学の力は恐ろしいものだと言っていたのではないか。元をたどれば、同監督の「風の谷のナウシカ」も科学の力が『火の七日間』という戦争によって世界が滅んだ後の世界であり、おそらく宮崎駿監督の初監督作品、世界戦争後の世界を描いた「未来少年コナン」の頃からこのことを警鐘しているのではないか。

少し話は変わるが、原子力は、まだ人類が持て余しているもののように思う。ドイツでは再生エネルギーを導入して国の電力消費量の43%を再生エネルギーが占めている(2022年。内訳は風力21%、太陽光とバイオマスがそれぞれ9%、水力が4%である)し、日本では再生エネルギーは全体の約22%である。核エネルギーは、もう少し未来で科学技術が追いついた時に、人類を助けてくれるものとしなければならないのではあるまいか? 宮崎駿監督は、そんなこともこの作品で言っているような気がする。

 

クラークの三法則と飛行石

幼年期の終わり』、『2001年宇宙の旅』などを書いたイギリスのSF作家アーサー・C・クラークが定義した三つの法則をクラークの三法則と呼んでいる。それは、

第1.高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている

第2.可能性の限界を測る唯一の方法は、その限界を少しだけ超越するまで挑戦することである。

第3.十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。

 

以上がクラークの三法則であるが、飛行石は第3の法則に当てはまるように思う。

人を宙に浮かせたり、呪文で様々なことが発動したり、あの大きさの物体でそんなことが出来るなんてまさに魔法だ。このサイズでシータを浮かせるには相当なエネルギーが必要であり、作品の冒頭にシータがあの高さから落下するとき、それを阻止してゆっくり落下させることなんかは核反応並みのエネルギー源が必要かもしれない。それをこの飛行石はやってのけるのだ。またラピュタの中枢にある『黒い石板』を飛行石で操ればラピュタの兵器などを意のままに操ることも出来る。だが超科学の設定である。宮崎監督はSFにも詳しいのできっとそういう設定にしたのだろう。ラピュタの王族といった特定の血筋の声に反応することもとても不思議だ。

光を放つ飛行石 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

 

サファイア 画像出典「ウィキペディア」

 

 

カボションカットされたラピスラズリ 画像出典「YAHoo!Japanショッピング」

 

飛行石は、鉱物的にはやはり宝石サファイアかラピス・ラズリ(青金石)が元ネタなのではあるまいか? だが深く澄んだ青色なのはラピズラズリにはない特徴だ。どちらも深い青色だがラピズラズリは不透明なのだから。

そういえばジブリアニメ映画「耳をすませば」で、主人公の月島雫が、躍起になって小説を書いていた時、「ラピズラズリの鉱脈が~」という文章を書いていたが、もし、それが実は飛行石からアイディアを持ってきているとしたら面白い。

シータの持つ飛行石は、カボションカットされていて、楕円形に磨かれている。これはオパールトルコ石など不透明な宝石に用いられるカット法である。

 

ラピュタの飛行石 画像出典「ジュエルエイト」

 

実は、「天空の城ラピュタ」には、ラピュタ人は実は宇宙から来たという設定がある。

宮崎駿監督が描いたイメージボード 画像出典「東京セブン アニメ」

 

イメージボード拡大  画像出典元「適正Perfume論 全身蜂の巣」

 

「天より現人神(あらひとがみ)降臨したまいし時、神の秘跡として宙に浮かびあがった古き町。今、世界を統べる聖都として空に君臨している」と書いてある。

だから時代にそぐわない高い文明水準を誇っていたのだ。

 

「人類の祖先は宇宙人説」というものがあるのだが、確かに古の、時代を考えると実現不可能なものがこの世に多数存在する。それらを「オーパーツ」というのだが、特に南米ペルーの『ナスカの地上絵』なんてどうやって描いたのかまるでわからない。どう考えても空中から何らかの指示などがなければ作成できないだろう。また、イギリスの巨石遺跡のストーンヘンジなんかもどうやって組み立てたのかいまだに謎である。

 

ナスカの地上絵『コンドル』 画像出典「ウィキペディア」

パズーとシータが歩いたラピュタの部分は神殿部で、巨木と外が透けて見える壁に囲まれている。神のために未知なるテクノロジーが使われているところにラピュタ人の神への科学的信仰が見て取れるのではあるまいか?

パズーとシータが見た、水没したビル群は位置的におそらく第2層、騎士たちの居住区だったと思われる。少なくとも深さ(高さ)100mはあるように思う。中世ヨーロッパ、あるいはアラビアを思わせる造りの街並みのようだ。

 

ラピュタの階層

天辺=神殿

第1層=天帝のいる界

第2層=騎士の界 12神将の塔

第3層エデンの園

旧約聖書『創世記』の記述によれば、エデンの園は「東のかた」にあり、アダムとイヴに、エデンの園を耕(たがや)させ、守らせるためにヤハウェによってそこに置かれ、そして食用の果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられていた。

 

第4層は労働者などの平民が暮らす居住区という設定らしい。ポム爺さんの先祖はおそらくここの出身で、ポム爺さんは子供のころから親や祖父から飛行石やラピュタの話をきかされていて王族の末裔シータの飛行石を見て驚きのあまり思わず体が動かなくなったのではあるまいか? 

ポム爺さんは運がよかったように思う。「わしのじいさんがいうとったよ。岩たちがざわめくのは、鉱山の上にラピュタがきとるからだ、とな」と発言しており、自分の祖父から聞かされていた「飛行石とラピュタ人」の伝説のようなものにじかに触れることが出来たのだから。パズーとシータのおかげで自身の起源や伝説が真実であったことを知れたのだから。シータに言った言葉「力のある石は人を幸せにもするが、不幸を招くこともよくあることなんじゃ。まして、その石は人の手で作り出されたもの。その……気になってのう」と、人が作り出した石に関して警鐘を鳴らすようなことを言っている。ラピュタ人が滅んでいったように、人は人の手によって破滅へと突き進んでいく……物語の中でも現実の世界でも……そんなことがあるかもしれないと宮崎駿監督が言っているような気がする。

科学が発達すること自体は悪いことではないのだが、それを扱う人間がいつの時代も不完全なのだ。それがこの作品のテーマの一部なのではあるまいか?

 

 

天空の城ラピュタ」のパンフレット及び小説前篇の見返しでは「ラピュタ」の元ネタの説明がなされており、空中都市の描写のあるジョナサン・スウィフトの著書『ガリヴァー旅行記 第三章 ラピュータ』のモデルは、古代ギリシャの哲学者プラトンの失われた地理誌『天空の書』に記された「ラピュタリチス」であると。ラピュタリチスは、かつて地上で一大技術文明が栄えた時に戦争を嫌い、天空へと逃れた一族によって築かれた広い領土を持つ浮島だったが、余りに高度に発達した文明生活の末に、ラピュタ人は生命力を失い、人口は減少し、紀元前500年頃に突如発生した奇病により、その後滅亡したとされる。だが、一部の人々は地上へ降り、姿を隠しながら生き延びたと伝えられている……これが「ラピュタリチス」であるが、「天空の城ラピュタ」では19世紀、1800年代から700年前に放棄されたと作中でムスカが言っているので約1100年代に無人になったことになる。

一期一会のラピュタ

ラピュタという城と、パズーとシータとの二人はまさに一期一会の出会いであったと思う。一期一会とはおそらく最も広く知られているだろう禅語で、絶えず変化する世の中で年老いて、死へと向かっていき止めようがない時の流れ、その生涯(一期)で誰かと出会うひと時も「一会(一回きり)」のものだ。だから二度と戻らないその時を精一杯の思いを込め相手と接し充実した時間を共有しようという意味のある言葉で、茶の湯では亭主、席、客人、道具が全く同じでもそれぞれが一回限りのものと考える。同じ茶会は二度とないので全身全霊で茶の湯に向き合い、打ち水や活ける花、お香、掛け軸など細部に至るまでできる限りの配慮をする。まさに最高のおもてなしなのだ!

普段私たちは一期一会の心をもって人に向き合っているだろうか? よく顔を合わせる人には「どうせまた会える」と思っているのではないか? しかしいつ会えなくなるかわからない。現にラピュタは一日であの有様になってしまったのだから……。

ラピュタ城との出会いは、パズーとシータにとってまさに「一期一会」なのではないか? いくらあこがれていても、たったの一回しか行くことが出来ない。その中でムスカたちとの闘い、ラピュタの秘密といった冒険感が観る者にとって心地良いのではないか?

私も身近にいる人にも同じように「一期一会」の心で接してみたいと思う。

 

またまた禅語であるが、『和敬清寂(わけいせいじゃく)』とは茶の湯と禅の心を表している禅語だ。「和」とは、人にも自然にも和み逆らわないこと。「敬」とはすべてに敬いの心を持つこと。「清」とは一点の塵も汚れもない清い佇(たたず)まいと心でいること。「寂」とは煩悩にとらわれず静かで不動の心でいること、だそうだ。

これらが一体になって和もうとする気持ちがあって相手を認め、お互いを敬う気持ちが生れてくる。敬愛の念をもって尊重しているから自然に相手に対していつわりのない清らかな心が持てる。そして清らかな心は迷いもなく静かでいて何事にも動じない。まさに茶の湯の世界でのありかたを示す言葉である。

 「和」として純粋にラピュタをこの目で見てみたいと言っているパズーやシータにとってラピュタにいる時間は、ラピュタの庭師ロボットや風景、高度な文化を持っていたんだと敬い、静かに古のラピュタに思いをはせていた……。まさに「和敬清寂」なのではあるまいか? ラピュタは宝島でも破壊兵器でもなく、自分たちのルーツを知る手がかりなのだとパズーもシータも思ったのではないか?

 

 

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天空の城ラピュタ」の後日談で、ゴンドワの谷に帰ったシータに、お手製のオニソプター(羽ばたき飛行機)でパズーが会いに行こうとする、という話がある。しかし宮崎監督は、いろんな人々がオニソプターで空を飛ぼうとしてきて失敗している歴史があるのに子供のパズーが一発で成功させられるわけがないと、あえてその描写は映画にはしなかったそうだ。飛行機マニアの宮崎監督ならではの、本当に空に挑戦した人々に敬意を払っているなぁと感心させられるエピソードだと思う。

オニソプターとパズーとシータ 画像出典「空中庭園と幻の飛行船」

 

脚注

――ビル・ゲイツ ――― アメリカの実業家、マイクロソフト共同開発者

Microsoft Windows95を発売。WindowsOSを開発した。Windowsは世界シェアNO.1となった。また、徹底的な合理主義者の一面もあり、「日本のマイクロソフトはこんな無駄遣いをする会社なのか。なんだこのファーストクラスの搭乗券は。1時間ちょっとのフライトに何故そんな無駄に会社の金を使うのだ!」と発言しており徹底的に無駄を嫌っている。

 

――漫画ドラえもんドラえもん)――― 藤子・F・不二雄

代表作は『オバケのQ太郎』(合作)、『ドラえもん』、『パーマン』(旧作は合作)、『キテレツ大百科』、『SF短編』シリーズである。数多くの作品を発表し、児童漫画の新時代を築き、第一人者となる。独立を発表した1987年までは安孫子 素雄(独立後は藤子不二雄Ⓐ)とともに藤子・F・不二雄として活動した。「F」とは本名の「藤本(フジモト)」の頭文字を意味する。

 

 

 

 

――「耳をすませば」――― 月島靖也 主人公、雫の父親 

耳をすませば』は、柊あおいの漫画作品。『りぼん』(集英社)にて連載された。1995年にスタジオジブリにて、アニメーターの近藤喜文の初監督作品としてアニメーション映画化、キャッチコピーは「好きなひとが、できました。」。また2022年に実写映画化もされた。

 

 

 

 

 

 

ジブリ作品としては「天空の城ラピュタ」は、「スタジオジブリ」というスタジオで制作した初の劇場作品である。1972年に東映アニメーション出身の原徹が設立した「株式会社トップクラフト」を前身に、徳間書店の出資によって子会社として1985年「株式会社スタジオジブリ」が設立された。そのため宮崎監督の1984年の作品「風の谷のナウシカ」は正確にはスタジオジブリ作品ではない。

また「天空の城ラピュタ」は宮崎駿監督が小学校時代に考えていた架空の作品が骨子となっており、原作となる作品が存在しない初のアニメオリジナルの監督作品である。(風の谷のナウシカは、宮崎駿作の原作漫画が存在する。)

ラピュタ」という名称は、風刺作家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭でイングランドアイルランド人のスウィフト(1667-1745)の『ガリヴァー旅行記』に登場する、空を飛ぶ島にある王国「ラピュタ王国」からとったものであるが、物語とはほとんど無関係である。

天空の城ラピュタ」は19世紀後半、産業革命期のヨーロッパを元にした架空世界での冒険を描いている。配給収入は5.83億円で興行収入は約11.6億円であり、興行こそ数字的には振るわなかったものの、配給した東映による観客満足度調査は97.7%と非常に高く、物語は幅広い年齢層に支持され、ビデオソフト化による販売は好調であった。

(―――全国動員 77万4271人となっている。―――)

 

バベルの塔  画像出典元「ウィキペディア」

ラピュタのモデルは16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家ブリューゲルの絵画バベルの塔(とう)で、旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔で、バベルとはアッカド語では「神の門」を表す。一方聖書によるとヘブライ語の「balal(ごちゃ混ぜ、混乱)」から来ているとされる。天にも届くいうなれば神の領域まで手を伸ばそうとした人類が塔を建設し、神に壊され崩れてしまったという神話がある。