ロディニアのアニメブログ

アニメについて自分なりの考えを書いています

「天気の子」について思うところ

私たちの頭上一面に広がる空・・・

晴れの日もあれば雨の日もある・・・

時に恐ろしい嵐を呼び、時に一生忘れることのない美しい景色を見せてくれる空・・・・・・。

まだ我々が知り得ない事が待っているのだろうか・・・・・・。

 

アニメ映画

             「天気の子」   

                               について

 

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
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 「天気の子」の冒頭の場面は病院の一室から始まっている。ベッドで寝ている入院患者の手を取る少女。親族のようだ。その部屋から、光がビルへと差している様子が見える。                 

画像出典元「Miemie Art. ***ココロの景色***」より



なぜか少女は病室から見えた光の指すビルに行く。そして、そのビルの屋上にある鳥居で祈ると、空の上に空間移動した!? 水でできた魚のように動くものが落下しながら、落ちていく少女の周りを飛んでいる…。空の上で人が浮かぶなんて現実ではありえない、とても不思議な光景だ。この不思議さが見る人々を惹きつける。優れた導入と言える。

 

 

新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」に多大な感銘を受けた私は、同監督の作品ということで、次の作品の映画「天気の子」を鑑賞した。「君の名は。」がエンターテインメント性が強いのに対して、「天気の子」はそれよりもより「世界よりも僕と君の方が大切」な『セカイ系』と呼ばれるジャンルの印象を受けた。『セカイ系』の代表作品としては、庵野秀明(あんのひであき)監督の「新世紀エヴァンゲリオン」が挙げられることが多い。新海監督のデビュー作「ほしのこえ」もこのジャンルに属するだろう。「天気の子」は、天気と「セカイ」というテーマが織りなすセンセーショナルな物語と言えると思う。

 

 

晴れと雨

 

単純に言うと天気の良し悪しは、晴れの日と雨や嵐の日の違いと思われる。日照りが続いた後雨を待ち望むこともあるし、嵐によって海の水が拡散されて赤潮等を防ぐ効果もあるようだが・・・・・・。一般に晴れの日が天気の良い日になるだろう。晴れの日に現れる太陽を、日本ではお天道様(おてんとさま)とも言い、「お天道様が見ている」と使われ、人間の悪事に対して他のひと間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く語である。お天道様がそのまま太陽を意味することもあれば、神や仏といったものの象徴として扱われることもある。世界各地で太陽は神として祀(まつ)られ、太陽神の存在はよく知られている。

日本の場合は、天照大神アマテラスオオミカミ)が太陽の神格化とされている。『古事記』や『日本書紀』には、弟であるスサノヲノミコトの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)のために、天照大神が天の岩戸に隠れて世の中が闇に包まれたとある。

「おてんとさま」と呼ばれたのは民間で、てんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てたところから来ているようである。

 

少女、陽菜(ひな)がくぐった鳥居の神社のモデルなのではないかと思われる建物がある。その神社の絵馬が下駄というのも面白い。下駄(靴)を飛ばしてその下駄がどの面で落ちて止まるか、ちゃんと立つか、裏を見せてひっくり返ったり、横向きに倒れたかで明日の天気を占う。昔はそんなのんきな天気予報だったのだ。それは別として、その神社があるのは東京都である。

画像出典元「気象神社」より

東京都杉並区の高円寺氷川神社には境内社気象神社がある。気象神社の、祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)といい、東京大神宮、他で創造の神として祭られている高御産巣神(たかみむすびのかみ)の子で、最も有名な逸話では、岩戸に隠れた天照大神を、集まった八百万(やおよろず)の神に岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている神である。1944年(昭和19年)4月、大日本帝国陸軍の陸軍気象部(杉並区馬橋地区)の構内に造営され、気象観測員が気象予報の的中を祈願したといわれている。

画像出典元「八王子さんぽ」より



高円寺氷川神社

 

 一方、天気が悪い代表の雨についての呼び名、それは日本では一説によると400種以上もあるのだとか。その中でも気になったものを挙げてみようと思う。

霖雨(りんう:何日も降り続く雨。) 涙雨(ほんの少しだけ降る雨。) 滝落とし(「豪雨」の古い言い方。) 村雨(むらさめ;強く降ってすぐ止む雨。) 狐の嫁入り(日が照りながら降る小雨。)  などなんとなく心惹かれる言葉だ。

 

また季節や時期によっても雨の表情の違いを日本人は感じ取っていた。春の雨なら、紅雨(こうう:春、花に降りそそぐ雨。) 桜流し(桜の時期に降る雨。) 夏の雨なら、甘雨(かんう:木々を潤す恵みの雨。) 酒涙雨(さいるいう:七夕に降る雨。) 秋の雨は、白驟雨(はくしゅうう;断続的に降る激しい雨。) 冬の雨は、解霜雨(かいそうう:作物を守るように霜を溶かす雨。) 鬼洗い(大晦日に降る雨。)  など。

このように日本では、表情豊かな表現が多様に拡がっていることがわかる。日本人は、たかが雨とは考えない。雨の降る時期や量にわびさびを持たせている、世界的にも珍しい考え方、鋭い感性をしているのではないか。

 

 

魚と天気の子

 

「天気の子」の冒頭で、天空へ行った陽菜(ひな)の周りに魚の形をした水でできた生物のようなものが出てくる。陽菜の周りを小魚のように群がっているのだ。

空中を魚のような水の生き物が泳いでいる、それは何を意味するのだろう・・・・・・。

小さい頃、父の部屋で「木星には空気のような生き物がいるのではないか」という記事の古いサイエンス誌を読んだことがある。生物はその環境に適応するので地球より気体率の高い木星ではそういう生き物がいるという空想だ。地球は岩石の星なのだが、「水の惑星」とも呼ばれるように、そこには水と大気が多く存在し、それらが生命を支えている。そう考えたとき、水の生き物があってもおかしくないという発想にいたったようにも思える。

画像出典「好奇心俱楽部」より



天空で陽菜(ひな)に群がるように水でできた魚のような物体が浮遊して(泳いで?)いる。地上にも雨として落ちてくる。まるで生き物のようにである。

まるで天空に我々の知り得ない生態系が存在するような描写であるが、地上の生物との関わりはあるのだろうか?

 体が水分なので重さはあるはずだが、それに抵抗しているかのように浮かんでいる。これは地上からの高度が高く、重力が弱い位置で生活しているからではないか?

しかし陽菜も浮かんでいるのは「天気巫女」になったからとしか言い様がない。人知を超えた力、「鳥居をくぐって願ったこと」によってそうなったとしか考えられないのではないか? そしてその願いと代償の呪いが対になっているような演出である。

 カトリック教会の修道女であり、東ヨーロッパで生まれ、ノーベル平和賞も受賞し、インドで国葬されたマザー・テレサは、「私たちのすることは大海の一滴に過ぎないかもしれませんが、その一滴の水が集まって大海となるのです」と自分たちの行動を正しく改めることをこう表現している。まさに慈悲深く、他者に愛情を与え続けていたテレサらしい言葉である。が、「天気の子」での一滴の水の集まりはとんでもないことを引き起こす・・・・・・。マザー・テレサとは逆に一滴の水は災害をもたらすのだ。

 

新海監督の描く空とぶさかなとは一体何なのだろう? 空中を泳ぐ魚? 鯉のぼりもそうではないか。日本では端午の節句に鯉のぼりを立てるが、これは中国の伝説で「大河、黄河の上流に龍門という急流があり、そこを鯉が上ったら龍になる」と言う伝説から来ており、そこから鯉のぼりを立て男の子なのだから勇ましく、大物になれというメッセージになったのではないかと言われている。空中を泳ぐ魚とは未来を輝くものにするという約束事ではないか。それに対して、新海監督の描くものは破滅の未来を予言するものではないか。

 

今CO₂の過剰排出によって地球温暖化と天候異変が世界中で問題となっている。年々より大きな被害をもたらす災害が、人類の危機を感じさせる。それは人類だけではなく生きとし生けるものすべて・・・・・・。

さらにCO₂を吸収する海も、その被害を被っている。海の汚染はマイクロプラスチックだけではなく、メチル水銀放射能など様々な物質によって加速されている。人間の文明によって、初めは少しずつでも次第に大きなうねりとなって汚染されていく・・・・・・全ての自然が・・・・・・。

 

深海監督の描くところは、汚染され海に住むことを諦めた魚が最後にたどり着いたところが空なのかもしれない。(人間の手が届かないところに、天気巫女として陽菜がやってきたので、天は怒り、地上を痛めつけたのかもしれない。まさに天罰ではないか。)

 海で生きていけなくなり空へと逃げ去った魚が、天気巫女として陽菜が天気までも自由に操ることに怒り、陽菜に天罰が降りかかるように仕向けたのではないか。

人知を超えた何かが、これだけ科学が発達した現代でも、いや、科学が発達した現代だからこそ起こっているのである。新海監督はそれに警鐘を鳴らしたのではないだろうか。

これからの人間に与えられる、まるで神からの問いかけに人類はどんな答えを出すのだろう・・・・・・。そんな問いかけなのでは?

 

 

 

自分に出来ること

画像出典元「映画ひとっとび」より



「自分の役割がわかった。ありがとう帆高(ほだか)。」と陽菜(ひな)はビルの屋上の花火の下で帆高に言った。自分の存在意義、すなわち天命とでも呼ぶものだろうか。自分に他人から必要とされるものがあればうれしいものである。その実感が伝わってくる。

自分は何のために生まれてきたのか・・・・・・誰でも一度は考えることではないか。そしてそれを『おとな』になりながら見つけていく。恋人であったり、会社や組織のポジションであったり、家族であったり社会貢献であったり。「いい成績が得られる仕事は自分が一番好きな仕事をしているときだ。」とアメリカの鋼鉄実業家アンドリュー・カーネギーは言った。陽菜も自分の好きな仕事をやれているのだろうか。

誰もが他人から、人間社会から必要とされることを願っているのだと思う。

画像出典元「アニメイトタイムズ

帆高や陽菜のやっていることは、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)が横行する今の世の中でも、ひたむきに進んでいけば報われることもある・・・・・・その代償もあるという監督からのメッセージに思えてしまう。

 

 

沈みそうな国

 

イタリアの水上都市ベネチアでは、「アクア・アルタ」という高潮の季節が11月上旬にやってくる。2019年には「アクア・アルタ」でサンマルコ広場を含むベネチア市の約75%が水に浸かるという異常事態が起こった。例年では約10%だった事なのでどれだけ異常事態なのかがわかるだろう。最高水位は1m87cmに達した。過去最も水位が高かったのは、1966年の1m94cmで観測史上2番目の記録である。

 

また、海面の上昇により被害を受けている国は他にもオセアニアミクロネシアポリネシア地域の南国の島国、モルディブ諸島、ツバル、キリバスマーシャル諸島などである。これらの国々は環礁等という珊瑚でできた島が多く、海抜が1~2mの低い地域も広く分布する。

海水によって人間の住みかが奪われるだけではなく、「塩害」という海水によって農地に海水の塩が入って作物が育たなくなると言う被害もある。

これらは先進国のCO2の排出による被害だと言われている。温暖化による海面上昇の被害なのだと。

我々の何気ない日常が、人々の安心を奪っているのかもしれないのだ!

スウェーデン王立科学アカデミーは2021年のノーベル物理学賞を日本出身で米国籍の真鍋淑郎・米プリンストン大学上席研究員(90)らに授与すると発表した。物理法則をもとに、大気中の二酸化炭素(CO2)濃度が気候に与える影響を明らかにしたというのだ。温暖化の原因を科学的に示した真鍋氏らの研究は、現在の脱炭素をめぐる議論の発端となった。

 

不器用なりの名言

 

物語の終盤で、離島からの家出少年である帆高(ほだか)を助け、かくまい仕事を教えた須賀(すが)が、「まあ気にすんなよ青年。世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから」と帆高に向かってぶっきらぼうに言う。須賀なりの不器用な慰めだが、それでもなんだか納得するから不思議である。何か変だなぁと思うことが世の中には沢山ある。正義だとか正しいことだとか、正直だとか真面目だとか、報われないことの何と多いことか。世の中が狂っているという考え方が納得できることが本当に沢山ある。言葉は語句を多く尽くせばいいかというとそうではない。舌足らずの方がより心に沁(し)みることがある。不器用でも一生懸命生きているだけで素敵に思えることがある。不器用を大切にしたからこそ成功をおさめた人の言葉を何人か挙げてみようと思う。

 

 

――下手の方がいいんだ。笑い出すほど不器用だったら、それはかえって楽しいじゃないか――岡本太郎(芸術家)

 

岡本太郎大阪万博の、太陽の塔をデザインし、「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃から仏の社会学者・文化人類学者マルセル・モースの下で絵とは関係のない民俗学を学んだといわれている。パブロ・ピカソの作品を見て強い衝撃を受け、「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言し、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。「芸術は爆発だ」という言葉も有名だ。

画像出典元「毎日新聞」より

太陽の塔画像と岡本太郎

 

 

――自分、不器用ですから――高倉健(俳優) 

 

また、高倉は「いい風に吹かれたいですよ。きつい風にばかり吹かれていると、人に優しくなれないんです。」とも言っている。俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったらしいが、採用から1か月半で主役デビューが決定、その際に「高倉健」と芸名をつけられる。1977年には『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、第一回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。『鉄道員』(ぽっぽや)では、第23回日本アカデミー賞(2000年)の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。

 

 

――失敗の原因を素直に認識し「これは非常にいい体験になった」というところまで、心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。――松下幸之助パナソニック創業者)

 

世界的企業、パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げたのが、松下幸之助だ。松下は父の事業の失敗で9歳ながら丁稚奉公(でっちぼうこう)をするはめになり、次の奉公先である五大自転車での丁稚奉公で後の飲料メーカー「サントリー」創設者の鳥井信次郎と出会い影響を受ける。これからは電気の時代だと確信し、「大阪電灯株式会社」に入り、後に退社し電気ソケットの会社を設立。この頃に肺結核の一種を患うも、病を克服、それが自信につながったと言われている。一代で世界的企業を立ち上げた陰にはこんな苦労があったのだ。

 

自分の人生を成功へと導く者は苦難を苦難と思わず、前へ前へと進んでいく。自分の描く未来像をしっかり見据え、それに向かって進むのだ。そして苦しいときは色々な成長を自分に課すのだ。思いやり、優しさ、人との接し方、色々な人の考え方。

人類も楽に生き残ったのではない。

 

 

スノーボールアース」と人類

 

 地球の歴史では、地球自体が全部南極のように凍りづけになるという「スノーボールアース」という現象が数億年ごとに複数回起きており、そのたびになんと9割近い生物が絶滅してしまうのだ・・・・・・。なんとも恐ろしい現象であるが、この先の未来でも十分に起こりえる現象なのだ。我々の子孫がその危機を乗り越えられるか、科学はそこまで進歩しているだろうか・・・・・・。この映画を観て、そんなことを考えてしまった。

 

類人猿は基本、木の上で生活しているが人類(その中でも特にホモ・サピエンス)は弱かったがために森を追われ草原に出てきて、天敵を見つけるために二足歩行になり、手が自由になり色々なことを出来るようになり、さらに弱かったがために団結して敵を倒したり狩猟をしたりしてこれまで生き延びてきたのだ。人類は弱い種族であったがために知恵を使い、団結して生きてきたのだ! 現人類である「ホモ・サピエンス」は類人猿や人類(ホモ属)で一番弱い種族だからこそ生き延びたのだ。

『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るものは変化する者である』とは、『種の起源』で「進化論」を発表したイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンの言葉である。最初、ダーウィンが人間は猿の仲間から進化したと言うと世間からは馬鹿にされ、今でもあまり信じられていない国もある。しかし科学が発達するに従い支持されてきた。生命の歴史の普遍的なものが語られているように思う。

強い者が生き残るわけではないのだ! 生命の危機を何度も乗り越えたわずかな『生きもの』がやっとのことで命をつないできたのだ。

科学という知識によってこれから訪れるだろう「スノーボールアース」に立ち向かうことができるのか……人類、生命へ神から突き出された試練は大きい。

画像出典元「エンタミート」より

これから起こりえるだろう自然現象により変わり果ててしまう地球。その中でどう生きていくか。人類に出された問いは重く、答えは見えてこない。しかし、生き延びるため、全力を尽くすことが生き物の定めなのだと思う。帆高と陽菜の見つけた答えもそれなのだ。こんな狂った世界で大切な宝物を見つけた二人ならこの先、何があっても大丈夫だろう。きっとそうだ。世界のために生きるのではなく、二人のために。利己的でない二人が、懸命に命をつなごうとするなら、これが生き物の定めなのだ。たとえ全凍結しようと、生きようとすること、その時起きた自然に反しようが、生きようとすること、それが生を授かったものの定めなのだ、そう言っているような気がする。

「君の名は。」について思うところ 2

本当にこんなことが起こったとしたら、自分ならばどうするだろう・・・・・・。

「あの人と入れ替われば人生楽しいんだろうなあ」と思った事があるかもしれない。

君の名は。』この物語はそんな主人公たちの、外見ではなく心、

中身の入れ替わりが象徴的である。

 

入れ替わりによる出逢い

君の名は。」より私が撮影

 

アニメ「君の名は」は入れ替わりにより、二人が出会っていくというストーリーから始まっている。瀧(たき)が三葉(みつは)の身体で自覚めたとき、何か胸に違和感を感じる。それは、おっぱいがあるから。ん? なぜ? と瀧は不思議がるが、これは何という衝撃だろう。古今東西、男というものは女というものに憧れを抱いて生きている。その憧れの身体の中で目覚めたのだから。だが、瀧はその至福の時を味わうことなく、なんだこれと状況が理解できないでいるようだ。その混乱の最中、妹が起しに来る「姉ちゃんなんで胸さわっとるん? ごはん!」と。いやらしさを感じる間もなく、ここに何かおかしみが生まれている、コミカルなシーンだ。

三葉に入れ替わった瀧

 そして次の場面では、三葉は、瀧の身体で目覚めるのではなく、三葉白身の身体で目覚める。妹の「今日はまともやね」という言葉から、前日の行動の異常さが浮かび上がる。どんな行動をとったのか、それは前段であった行動、つまりおっぱいをさわったのである。瀧が三葉の身体に入れ替わった時、反対に三葉が瀧の身体に入れ替わった時の行動を描かずにいることが、かえって深く興味を抱かせる。

次の日三葉が登校すると、勅使河原克彦(テッシー)と名取早耶香(さやち)から「今日はまともやね」「ありやキツネツキだわ」と言われ、さらに前日の学校での行動の異様さが強調される。まともじゃないこととは、一体どんなことがあったのか。そんなことが想像されてますます興味がわいてくる。

君の名は。」より私が撮影

 

 

学校での国語の授業。そこでは、「誰そ彼、彼誰そ、彼は誰」とカワタレ時の学習をしいるが、もしかして、それは語順をかえることで出来る「カタワレ時」という「入れ替わりの半分」のことを意味しているのかも知れない。

君の名は。」より私が撮影

ついで、三葉が先生にあてられる場面がある。先生は「今日は自分の名前忘れてないね」と言い、みんな笑い。三葉は何も分からず首をかしげる。前日には自分の名前を忘れていた。つまり、自分が誰だか分からなかったということが分かる。前日の様子がありありと想像される。

そして三葉のノートに「お前は誰だ?」と身に覚えのないメモがある。これにより、誰かとの入れ替わりがはっきりと認識される。

君の名は。」より私が撮影、瀧の姿の三葉

今度は、三葉が瀧の体で目覚める。下半身に違和感「なんや・・・ある・・・」触ってみる「ひゃあ!?」感触が!これは驚くだろう。また、左頬にガーゼが。触って「痛い!」前日に何があったのか。

「トイレ行きたい…」まだ見たことなかったのに・・・仮にも巫女なのに・・・顔赤らめため息つきながらトイレから出て玄関のドアを開ける。このシーンに純情な乙女の困惑が爽やかに描かれていて好感がもてる。

 

君の名は。」より私が撮影、三葉の姿をした瀧

 

瀧は、三葉の身体で目覚め、ニヤリとし胸に触れる。一方三葉は、瀧の身体で目覚め、また下半身に違和感を覚え、なんなのよこれ!・・・と。男女の差異なのか分からないが、登場人物の心情に共感できる。

君の名は。」より私が撮影、瀧の姿をした三葉

  

入れ替わりの設定について 

 

古典の「とりかえばや物語」は入れ替わりの代名詞的作品だが、男女が立場を入れ替えて育てられるだけで中身が入れ替わっているわけではない。今回、新海誠監督は最初の企画案から<とりかえばや>という言葉を使っていた。男女がスイッチする物語を作るに当たり色々な本や映画を参考にしたそうだ。そこで監督が思ったのは「ジェンダーの差異の話にはしない」ということ。

 

「今は男らしい女の子も女らしい男の子も普通なので、とりかえばやをジェンダーの差異の面白さで見せることが成り立ちにくいと思うんですよね。その中で「ぼくは麻理のなか」(押見修造)は女子高生になってしまったさえない大学生が彼女を取り巻く環境をのぞき見る話になっていて、その面白さの方が共感性があるなと思ったんです。むしろ「らんま1/2」(高橋留美子)のような、ひとりの人が別の人間になるスイッチの面白さや、お互いの見ている風景を感じて、そこでお互いを知るというところがポイントになればいいなと思いました」

(新海誠インタビューより)

 

 

参考図書

 加えて参考にしたのはグレッグ・イーガンの「貸金庫」という短編。朝起きるたびに違う人間になっているという物語で、韓国映画の「ビューティーインサイド」にも共通するものがあると思って観に行ったそうだ。読者の皆さまにもぜひさまざまな<入れ替わり>を楽しんでみてほしい。

 

 

 

ドラえもんと入れ替わり

 

国民的アニメ「ドラえもん」の3D映画「スタンド・バイ・ミー ドラえもん2」では、未来ののび太と現在ののび太の中身の入れ替わりがある。自然概念がどうのではなく、コミカルで面白い発想だ。

 

 

そして大人ののび太が子供の体に戻って、少年期時代のジャイアンスネ夫、しずかと遊び、野球をしたりと数十年ぶりに子供の頃の体験をして大人ののび太は感動の連続なのだ。視聴した子供たちはドラえもんとしてみられるし、アラサーの私にとっては懐かしさと「そんなことしてみたいなあ、歳をとったなあ・・・・・・あいつら元気かなあ・・・・・・泣けてくるなあ」と子供と大人で別々に感動できる二重構造になっているのだ。

誰でもが大人になれば仕事もしなければならず、あるいは子育てだとか、同僚との付き合いだとかで子供の頃からの友人に会えなくなる事が多いのではないだろうか。忙しくて自由がきかないと。そんなとき、ふと「ドラえもんがいてくれたらなあ」と我々世代は思うのではあるまいか。

タイムマシンに、タイムふろしき、タイムテレビ、など時間を操る道具が多数登場する。

ドラえもん」の生みの親、『藤子・F・不二雄先生』の発想は奇想天外だけではなく人の思いに寄り添っていて実に素晴らしい。「ドラえもん」は一番優しくてわかりやすいSF漫画であろう。

 

 

ドラえもん」や映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような『タイムマシン』は、まさに人類の夢なのではないか。「あのときああすれば・・・」「なんであんなことを・・・」と時には取り返しのつかない失敗も戻せるかもしれない・・・そんなことを修正できるのならば必ず修正したいと誰にでも後悔はつきもの、それが人生である。しかしもし、それを直せたのなら。

タイムマシンの原案は、正確には1887年、スペインの作家エンリケガスパール・イ・リンパウの『アナクロノペテー(時間遡行者/時間遡行機械(そこうきかい))』で登場したのが初まりであるが、有名にならず、時間を遡(さかのぼ)るだけであり、「未来へいく」という概念は存在しなかった。

時間移動を最初に描いたのは、「トム・ソーヤの冒険シリーズ」のアメリカの作家マーク・トゥエインの1889年の『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』だが、マシンは登場しない。この作品でも「過去へ行ったり、小説内での当時の現在に戻る」ということはあっても、「未来に行く」という概念は存在しない。

今の「タイムマシンもの」に影響を与えたのは、イギリスのSF小説H・G・ウェルズの『タイム・マシン(1895年)』で過去にも未来にも行くといった「タイムトラベル」を行うことが可能で、「ドラえもん」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などもこの小説に登場するタイムマシンを元としたものが創られている。

画像出典元「ウィキペディア」より

ハーバート・ジョージ・ウェルズ

 

 

タイムトラベルの歌

サディスティックミカバンド「タイムマシンにおねがい」


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原田知世時をかける少女


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時間について

 

 時間とは何だろう。0次元の点が動くと1次元の線となり1次元の線が動くと2次元の平面となり、その2次元の平面が動くと3次元の立体となり3次元の立体が動くと4次元の時間となると聞いたことがある。だがこれはずっとつながった時間の流れを意味する。ところが、時間分岐(じかんぶんき)というものがある。それは時間が枝のように分岐するという時間観、分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているが、その世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であるという。量子力学の問題解決のための仮説である多世界解釈も時間分岐の考えを使っている。この仮説もいつか真実となって証明されるかもしれない。

 時間進行の操作というものがある。それはつまり時間の進行を速くしたり、遅くしたり停止したりする。日本の昔話「浦島太郎」で、亀を助けた浦島太郎がお礼に海の底の竜宮城へ招待されるが帰りに乙姫から、絶対に開けてはならないと玉手箱を渡され、この時点ですでに竜宮城に行った時間より周囲の時間は進んでいたのだが、結局玉手箱を開けてしまい、中から煙が出てきてお爺さんになってしまう話や、米国の最初期の小説の一つである「リップ・ヴァン・ウィンクル(1816年)」という、ワシントン・アーヴィングの小説で、ウィンクルがオランダ人の酒宴に参加し眠ってしまい気がついたら20年も経っていた、という話がそれである。それは、タイムトラベル、つまり 時間を移動し、過去や未来に行くことにとても近い。H・G・ウェルズの「タイム・マシン」がそれをはっきりと示している。だが、ホーキング博士(1942-2018)は「タイムマシンは不可能である」と述べた。「過去に行く時間的閉曲線が存在するには場のエネルギーが無限大でなくてはならない」と述べた。過去に行くことはかなり難しいということだと思う。

 

タイムパラドックス

 

 「タイムパラドックス」とはタイムトラベルに伴う矛盾や変化のことで、具体的にはタイムトラベルした過去で現代(相対的未来)に存在する事象を改変した場合、その事象における過去と現代の存在や状況、因果関係の不一致という逆説が生じることに着目したものである。もっと分かりやすく言うと、タイムトラベルした過去で何かやらかしたことで未来が変わってしまう、それが大きな矛盾を生んでしまうということである。

 

 たとえば、『親殺しのパラドックス』。自分の誕生前の両親を殺すとどうなるか、

1どう画策しても殺すことが出来ない(矛盾生じない)

2両親は自分を生む前に死亡するので自分も消滅する。そうすると自分が過去へ遡ることが出来なくなり両親が死ぬこともなくなる。矛盾(パラドックス)である

3両親が死んで自分が生まれない世界が自分が生まれてやってきた未来世界から分岐する(パラレルワールド)。両親が無事だった過去(そもそも時間移動すらしなかった世界)     には何の影響もないので矛盾ではない

 

また、量子力学の世界では時間の概念が一般とは異なっており時間が逆方向にも流れるとされている。それなら過去にもいけるのかな。

 

他にも、同じ時間軸の時間が繰り返される「タイムリープ」ものが存在する。(「涼宮ハルヒの憂鬱」「うる星やつら ビューティフルドリーマー」など)

 

 

 

 今では、タイムトラベル活劇がたくさん生まれている。

1.SFで言うIF世界(仮定世界)歴史が変わったら存在するかもしれない世界

「モンゴルの残光」豊田有恒、『スーパー太平記手塚治虫、「ターミネータージェームズ・キャメロンなどがある。

 

 

2.過去に飛ばされた現代人未来から現代に飛ばされた未来人が高度な知識で救民、社会変革を目指す「闇よ落ちるなかれ」Lスプレイグ・ディ‐キャンプ 「JIN仁」村上もとかなどがある。

 

 

3.歴史上の謎をタイムトラベルで解明したものに、「さよならダイノサウルス」ロバートJソウヤーがある。

 

4.主人公たちがタイムスリップすることで史実が再現されるものもある。

戦国自衛隊」がそうである。

 

 

 

 

 

「孤独」と「君の名は。

 

話は変わるが、「ドラえもん」の話に「どくさいスイッチ」という話がある。そのスイッチを使うと、自分が邪魔だなと思う人間の存在を消すことができるのだが、のび太ジャイアンを消し、スネ夫を消し、気に障った人間ならば誰でも消してゆき、しまいにはドラえもんまで消して世界中の人間も消してしまう・・・・・・。孤独になったのび太は、そこで初めて「孤独」というものの恐ろしさを真に受けるのだ。

1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初の登頂を果たし、世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げ、さらに犬ぞり単独行で初めて北極点に到達し国民栄誉賞も受賞した冒険家、植村直己(1941-1984)は、基本単独で冒険するのだが、一番恐ろしいのは「孤独」だと話したそうだ。「失敗したら脱げ道がないと思った。人間社会をさまようよりは大自然の中にしか生きる道はない。弱音を吐きたがる自分に打ち克つしかない。ただひたすら前へ進むこと。」だと。強い精神力を要する事を成し遂げた人でも、「孤独」というものは恐ろしいもののようだ。

 

 

 

君の名は。」で、いつも目覚めると大切なものを失ってしまったような感覚で涙がほろりと泣きながら目覚めていた瀧と三葉も、心にぽっかり穴の開いた「孤独」に近い感覚を持っているのではないであろうか? そこに他の「青春学園もの」と「君の名は。」との大きな違いがあるのではあるまいか。そのために世界的なヒットにつながったのではないか。誰にだって「孤独」というものが心の底から顔を出すことがある。そこに共感するのは世界共通のように感じる。庵野秀明監督のアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の登場人物渚カヲルは、「人は孤独を忘れる事で生きていられる」と言っている。確かに「孤独」は恐ろしいもので、コロナ禍での人と距離を置かなくてはならない状況で、修学旅行も行けなかった生徒さんが日本中にいた時代だ。

しかし、それでも互いのことを瀧と三葉は諦めなかったのではないか。古い歌だが「東京砂漠」と言う歌が唄っているように、人は多くいるのに、皆他人に無関心なのが東京の特徴の一つと今でもよく言われる。「孤独は山になく、街にある。大勢の人間の間にある」とは哲学者、三木清の言葉だ。が、夢を見て上京してくる若者も後を絶たない、「孤独」と「夢」がコインの裏表のように存在するのが大都会東京なのだろう。


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最後に。

綾小路きみまろさんのネタから一つ。「独身の人は結婚したいんです。結婚した人はひとりになりたいんです!」

 

 

「君の名は。」について思うところ

あなたは恋をした事がありますか? 特別な、大事な人はいますか? その人はすぐ

に会える距離にいますか? それは現実ですか? 

もしもすべてが夢だとしたら……。

 

 

君の名は。

 

画像出典元「KADOKAWA」より

 

 

君の名は。」:新海誠監督作品の2016年公開のアニメーション映画。東京に暮らす少年・瀧(たき)と飛騨地方の山深い田舎町で暮らす少女・三葉(みつは)の身に起きた「入れ替わり」という謎の現象と、1200年ぶりに地球に接近するという「ティアマト彗星」をめぐる出来事を描いている。

 

君の名は。」と私の出会い

 

まず私が高校生の頃位か、当時話題になっていたアニメ映画、細田守監督「時をかける少女」がテレビでやっていたのでワンシーンだけ見たのだが、それを観たとたん、眩しい青春描写に私はムカムカしてすぐにテレビを消した。何故ムカムカしたかと言うと、私にしてみれば、そんな綺麗ごとの青春なんてうそっぱちに見えたからだと思う。なんとみじめな青春を過ごしていたかと自覚していた。本当にもったいない! それ以降細田守監督作品は「おおかみこどもの雨と雪」、「サマーウォーズ」などは一切観ないことにしたのだ……当時は浅はかな決断とはまったく思わなかったのだ。しかしアカデミー賞にノミネートされた「未来のミライ」はちゃっかり視聴しているのだしかも多大な感動を受けて。……(笑)

君の名は。」も「時をかける少女」と同様に青春真っ盛りな高校生が主人公の映画であることから観る前から毛嫌いして観ようともしなかった。そんな私がなぜ見ようと思ったのかというと、中学生時代に友人の紹介で新海誠監督の「ほしのこえ」を観ていてそれは何となく好きだったのと、「君の名は。」の異常な観客動員数である。日本でも記録的な動員数だが当時、中国での海外映画収益で歴代1位を取っていたのだ。私は名誉と記録に弱いみたいだ(笑)。

正直、劇場で観たわけではなく、実家のHDの録画で観たのだが、アラサーにもかかわらず、ラストに号泣したのが「君の名は。」との出会いであった。

 

イジメと音楽

 

物語序盤、学校に登校している三葉が、クラスの一部の連中に聞こえる様に陰口をたたかれるという意地悪をされている描写があるが、音楽のブルースもアメリカで差別されていた黒人によって生み出された、軋轢(あつれき)からの解放を求めて作られた自由を求めた音楽であり、そこから派生してジャズやR&B、ロックンロールが生まれている。黒人差別もひどいものだったが、日本でも陰湿ないじめによる被害は学校でも職場でも後を絶たないが、こうした背景から生まれたのがブルースやロックなのだ。人間が自由を求めて生み出したものなのだ。だから聴いていて勇気づけられるのだ!

 

 筆者の好きなロックの曲は、ビートルズの「ヘルプ!」で、それが音楽への目覚めのきっかけだった。12歳頃であったか。当然ビートルズ世代ではないが、父のカセットで聴いていたり、某テレビ番組のオープニング曲でもあり、イントロなしでいきなり「ヘルプ!」と歌が入ってくるが印象に残った。歳を取るにつれて歌詞もいいことに気がついたりと、人生を左右した大切な一曲だ。


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 アメリカのロックバンド、グリーンデイの「Boulevard of Broken Dream(ブールヴァ―ド・オブ・ブロークン・ドリームス)」という孤独を歌った曲があるのだが、大学1年の春休みに帰省いた時、ちょうど母が病気だったことを私に隠していて、ウィッグが取れて髪の毛が抜けてしまった母を見て大きなショックをけた。この曲を聴いていた大学時代、熱があっても肉体労働のバイトをしたり、単位取りに必死になって「孤独でも自分は頑張ってるんだ」と言い聞かせて学生生活前半を送っていたのだが、結局体を壊してしまう。なんとか体を壊して大学を卒業して、その後アルバイトばかりしている時にもこの曲が自分を鼓舞し、自分を支えてくれた。まさに名曲だと思う。


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入れ替わり

 

替わりによって出会った瀧と三葉。瀧は三葉の体に興味津々で(笑)、三葉は戸惑っている。ある意味ではトランスジェンダーのようにも思える。近年ではダイバーシティという言葉がある通り、そういう体と性の不一致のマイノリティーの人々でも安心して暮らせるという社会を世界中で目指している。

入れ替わりで、互いの周囲の人々との関係も徐々に変わっていく。

 

男女で反対の性別で育てられる「とりかえばや物語」と小野小町の「夢と知りせば覚めざらましを(夢と知っていれば目を覚まさなかったのに)」という『古今和歌集』の歌が物語のモチーフになっていると新海監督は発言している。「入れ替わりと夢」というのが「君の名は。」のポイントだ。じつはタイルも、「君の名は。」ではなく「夢と知りせば」、「かたわれ時の恋」にしようかと考えていたこともあったという。高橋留美子先生の「らんま1/2」の影響も受けているとか。確かに男女の入れ替わりという点で影響を受けている。 

それにしても「とりかえばや物語」は、現代のアニメや漫画、ライトノベルの題材にも通じる……考えた人は不明だが、千年先を見据えた天才だったのではないか!

 

「ムスビ」の考察への出発点

 

 「君の名は。」の瀧の心が宿った三葉が、三葉の妹とおばあちゃんとご神体の処へ行く道中、休憩に「おむすび」を食べるシーンがあり、そこでおばあちゃんがムスビについて説明する。おばあちゃんは「糸を繋(つな)げることもムスビ、人を繋(つな)げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神さまの力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕わしとる。よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ。」と言ったシーンがある。「ムスビ」とは何なのか。解き明かしてみたい。

 

ムスビと産霊(むすび)と結び

 

今現代でも手で結ばれた飯を「おむすび」というが、食べやすい形にしただけでなく、もっと神秘的な郷愁(きょうしゅう)を感じさせる食べ物だと思う。シンプルに米を握り固め、さまざまな具を入れ、もち運びにも便利だ。『結ぶ』という言葉は、奈良時代には「むすひ」と発音され、「むす」は『産』、『生』という意味を持ち、「ひ」は霊力を表す言葉であったらしい。つまり、「むすび」とは、何かを生み出す人知を超えたものだったと思われる。

「むすぶ」という言葉には「契り」や「結実」、「完結」などの言葉になって完全なもの、揺るぎないもと言った意味で今も我々の暮らしの中に根付いている。男と女の「結び」は完全でないものが一体になることで完成され、実を「結ぶ」とは、ことの完結を祝う時の言葉だという。

 今も我々の暮らしの中で祈りの心を表す時に、物と物を結び合わせる習慣が残っている。 <水引>や<しめ縄>がまさにそうであり、結婚など人と人との縁や、おみくじなどを枝に結ぶのも日本人の原像が残っているからかもしれない。

画像出典元「@DIME」より

 

「ひ」は霊力を表す言葉であったらしいと先ほど述べたが、「ひ」という音には実に不思議なチカラが宿っているという。男女の仲を結ぶ、「結び」という言葉の中にもスピリチュアルな雰囲気漂う「霊(ひ)」の音が隠されている。結びの語源は、「生す(むす)」「霊(ひ)」にある。

その「生す霊」は「産す霊」であり、「産霊」は古来から神道においても大事な観念として語り継がれている。「ムス(産)」には“生み出す”、「ヒ(霊)」には“神霊の神秘的な働き”という意味のがあり、ムスヒ(産霊)とは、「結びつくことによって神霊の力が生み出される」ことと解釈されている。

「むす」は、「苔生す(こけむす)」や「料理を蒸す」などの「むす」を意味しており、温暖多湿の気候風土の中から生命が生まれてくる過程を表している。アニメでは周囲を水で守られたほこらへと進んでいくが、この水も命を生み出す大切な要素だと思われる。

 湿っぽい環境の中から生命が誕生するのである。宮崎駿監督作映画「もののけ姫」にも登場する鬱蒼(うっそう)とした森とその中に存在する池が連想される。もう一度言うが、天地・万物を産みなす神霊、むすびの神のことを産霊(むすひ)と言う。天照大神と共に、高天原の至上神とされる高皇産霊神(たかみむすひのかみ)や神皇産霊神(かみむすひのかみ)の名前にも「むすひ」という言葉が見られる。日本最古の歴史書である古事記には、“天地が形成された始まりの時に、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみムスヒのかみ)、神産巣日神(かむムスヒのかみ)という三柱の神が現れた”と記されている。
 この中の2柱の神名にも「ムスヒ」が見えることなどからも、「天地万物を生成する霊妙な力をもつ神霊」とも定義されている。いかに「産霊」が大事にされてきた観念であることがうかがえる。

 また、霊力によって命を宿し産まれるものを息子、娘と呼ぶが、息子という言葉のルーツは「産す子(むすこ)」であり、娘のルーツは「産す女(むすめ)」である。

古来、「願いを込めて結ぶことは、人の想いまでをも留まらせることが出来る」と考えられていた。瀧と三葉の互いを想う心の深さは「願いを込めて結ばれた」何かがあったからなのだろう。

神社でも「しめ縄」という形で幾重にも結ばれた縄で結界を張っているし、願いを込めておみくじを木の枝などに「結ぶ」行為が今日でもなされている。

 

水引

 

水引も紅白の紐を「結ぶ」ことにより、<人と人を結びつける>という意味が込められ、結婚式やお祝い事などめでたい場で使われることになったのだろう。また、白と黒の紐を使う場合は凶事に使い、悪縁を断ち切るため、結びながら切ることを強調していると思われる。

 

 

画像出典元「ギフトマナー事典」より

図1水引

 

先程今の人もおみくじを引いた後に木の枝に結んだりすることを述べたが、昔の人も今のおみくじに似た習慣を持っていたようである。万葉集に、「磐代(いはしろ)の野中に立てる結び松」という歌が出てくるが、その歌がそのことを表している。誓いをかけたり契りを結んだ印として松の小枝に結んでいたようである。

画像出典元「たーぶらんの戯言」より

図2.大阪御霊神社の茅の輪。

君の名は。」に出てくる瀧は立花姓で、三葉は宮水姓であるが、この立花姓と宮水性は兵庫県に多い。また、日本三大名酒の里がある灘は兵庫県で、その灘の日本酒に使われる水を「宮水」と呼んでいることから、三葉の祖先はこの宮水家とつながっていても何ら不思議はないと思われる。その証拠が作中にある「口嚙み酒」という酒との縁ではないかと思う。

 

 

画像出典元「浅草 桐生堂」より

 

 映画「君の名は。」では組紐をくみ上げる場面が登場するが、シンガーソングライターの中島みゆきさんの「糸」という曲は、人と人との縁のつながりをたての糸と横の糸が織りなして布が出来るようだとして表現しているが、組紐をなんとなく想像させる。縁というものを糸が絡まり美しいものを創り上げていることに例えているのではないかと思う。現実では糸が絡まるとやっかいなことになっていやがることも多いのだが、この組紐では糸と糸との絡み合いこそが美しいのだと表現されている。もしかして、人と人との縁とは、たとえ結びが合わなくても絡み合うことでも美しいことなのではないか。そんなことを感じさせる。ひとつひとつ組み上げられている縁は、必ずしも結ばれなくてもどれほど素敵で輝かしいことか。そんなことを想像し、人と人とが縁をつなぐこと、そのことを心から願った。

新嘗祭(にいなめさい)と「結び」

 

新嘗祭は、その年の収穫に感謝して初穂を備えて神々をもてなし、共に食すことで契りを深め神様の御力を頂く、宮中でも大事にされている儀式だ。また、新嘗祭はその年の勤労で結んだ成果を国民一体となり神様に捧げ、そのご縁を深く「むすぶ」儀式でもある。

 

万物に神が宿ると考えられていた古来の日本では、物の結び目までも神の心が宿っていると考えられていた。身の周りの「あらゆる『ムスビ』に感謝して生きる」ということには、先人たちの<万物との調和を尊ぶ心>が現代でも息づいていることがわかる。

 

ロープの結び目

 

ロープもその「結び」の一種で、力強く絡み合い人間を何世紀にもわたって助けてきた存在だ。その結び方にも人の願う心が見えるような気がする。

そこで結び方の例をいくつかとり上げてみたいと思う。

「ロープの結び」には、ロープの端っこを結ぶもの、そして中ほどを結ぶもの、さらに二本のロープ端っこを結ぶものなどがある。

まず、ロープの端っこを結ぶものとして、「ひと結び」を紹介したい。「ひと結び

画像出典元「ひと結び - Wikipedia」より

これは芯に結びつける結び方の中で最も単純なもの。

 

止め結び」 (1端)

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)

ロープに輪をつくり、そこの中にロープの片端を通すことによってつくる。最も単純なストッパー・ノットである。

これを0端(端っこのない結び方)と言ったりもする。

次に紐の中ほどに輪を作る結び目。

この例としては「よろい結び」がある。

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)

これは、ロープの中ほどに輪をつくる結び方で両端を使わずに結ぶことができる。ロープ本線を強く引くと輪が小さくなってしまいやすく、それほど強固ではない。左右非対称のため、引く方向を考慮して結ぶのが望ましい。

 

最後に2端(紐の2端で作る結び目)、つまり

紐の2端で作る結び目には、次のようなものが挙げられる。「本結び」「蝶結び」

本結び

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)」より

 

蝶結び

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)」より

端と端を結ぶ方法。一度2つの端を絡めたあと、左右に広がるような形に2つのループを形成させて再度結ぶが羽根を広げたような形に見えることからこう呼ばれる。装飾性が高く、非常にほどくことが容易であるため、靴紐を縛る時やリボン髪を結う時などに使われる。

ところで、先ほど結び方の中で「止め結び」というのを紹介したが、この中に「三葉結び目」と呼ばれるものがあるという。最も単純だが、かたく結ぶ結び方のようで、結び目理論では「三葉結び」目と呼ばれる。

三葉が、瀧との別れを止めて、結ばれようとしていくまさに最後の場面が、その結び目ではないか。そんなことを考えた。

 

生きにくい時代だからこそ

 

『心の中で「自分ダケ」という毒キノコを育てていませんか?』という言葉がある。これは薬師寺の大谷徹奘(てつじょう)和尚の著書「みんな迷いがあるんです」での言葉だが、近年、確かに「死刑になりたいから」とか「死にたかった」だとか自分も周りも見えずに凶悪犯罪に手を染めてしまう人が増えているように思う。確かに景気も良くないし、SNSによって人間関係はより気薄になってきているのにもかかわらず複雑化して自分と相手との関係性もよくわからなくなってきている。そんな有様だが、「自分だけ辛い」と考えてしまうことは自暴自棄に陥り、自分自身を大事にできないことはおろか他人の命までも軽く見るようになってしまう……そう考えることは、心に良くないのではないか。「下を向いていたら、虹は見つけられないよ」とは、「街の灯」「モダンタイムズ」「ライムライト」などの作品で知られる喜劇王チャップリンの言葉だが、彼も幼少期より苦難の多い人生を送ったが、上を見続けたから今日の偉業と評価があるのだ。

宇宙戦争」「透明人間」「タイムマシン」などの作品を残したSF小説の父と言われるH・G・ウェルズは「昨日倒れたのなら、今日立ち上がればいい」という言葉を残している。人生にはいい時も悪い時もある。しかし上を見ていなければ良いことに気が付かない場合もある。失敗しても次に生かせればいい。何も自分を追い込むことはない。

 確かに人生は残酷で失望ばかりさせられることが多い。しかし、一方で瀧や三葉のように人生を切り拓いて起こせる出会いや奇跡もあるのではないか。一寸先は闇ではあるが。

コロナ禍で、SNSによる中傷で、生きにくいかもしれない時代になってしまったようだが、どこかに必ず希望がある。悲観するのはまだ早い。新海誠監督、瀧と三葉はそのことをスクリーン越しに私たちに伝えているのだと思う。

 

先ほどの徹奘(てつじょう)和尚は、「縁は生き物である」とも説いている。鉢植えをプレゼントされた和尚は、水をやったり日に当てたりして世話をしたらつぼみが膨らみ、花が咲いたのを見て、「もらった苗木を枯らさずに、花を咲かせるためには、「育てる」という行為が不可欠で、世話をして時折『がんばれ』と声をかけてやる。そうしていくうちにやがて花が咲き、実を結ぶ。縁もこれと同じで自分が面倒がれば、そこで枯れてしまう。だから「縁は生き物」なのだ」と。

瀧と三葉は縁を結べているのだろう。二人は互いに出会うことを求めていたのだから。そこからどうなるかは彼ら次第である。

「何もかも失っても、未来だけはまだ残っている」とは米国の作家、弁護士のクリスチャン・ネステル・ボビーの言葉だが、その通りではないか? 自らの未来に責任を持ち、堂々と、ゆっくりコツコツでもいいから、自分らしく夢に向かって生きて行きたいものである。

画像出典「紀伊國屋書店」より

 

 

君の名は。」では酒が作品の重要ポイントとして出てくる。

お酒というものはストレスを軽減させてくれたり、飲み二ュケーションと言葉がある通り、適切に呑めばリフレッシュや人間関係が円滑になったりといい面もあるが、飲み過ぎや悪酔い、二日酔いなど悪い面もある。また、酒に弱い人、飲めない人に無理にすすめるのも良くない行為だ。アルハラ(アルコールハラスメント)、ダメゼッタイ!

 想像だが、大人になった三葉は酔うと笑い上戸(酔うとよく笑う)になるのではないかと思う。おしとやかな性格なので一緒に呑むと楽しそうだ。優しい性格のテッシーとさやちとも一緒に楽しく飲めそうだ。

瀧は喧嘩っ早い性格なので性格的に絡み酒(酔うと人に絡んでしまう)、絡まれ酒のように思う(笑)。瀧と司と高木とは大学生になって一緒に飲んだんだろうなと思う。夢を語り合ったり、愛に憧れていた……そんな会話をしながら飲んだのではないか。なんともうらやましい青春である。しかし瀧は三葉がどうしても心の中に残っていて虚しい気持ちになっていたのかもしれない。

 

筆者は大学時代を新潟で過ごしたが、新潟と言えば米どころ、淡麗辛口の日本酒の聖地である。「八海山」や「上善如水」に「鶴亀」、「久保田」などの他にも地酒が充実しており、質のいい日本酒が飲めるのだ。

筆者は最初、学科の同期とはなかなか馴染めなかったが、3年生の地質調査の進級論文で宿泊していたロッジで同期と一緒に呑んで馴染んでいった。先輩にも「お前面白いから飲み会もっと出てくれよ」と言ってもらえ、すごくうれしかったのを覚えている。それからは仲のいい先輩や友人も増え、卒業してだいぶ経った今でも付き合いのある友もいる。私にとっての人生の宝である。

 

 

世界最古の酒は蜂蜜酒(ミード、MEAD)で1万4千年ほど前と、農耕以前だったと言われている。クマに荒らされた蜂の巣から自然にできた酒であったという。

ミード、MEAD

 

画像出典元「とちさけショップ 天鷹

ネムーン(honeymoon蜜月)は、ヨーロッパでは新婚夫婦は約ひと月蜂蜜酒を造る(蜂蜜は栄養価が高いので精力、暗に子作りの意も)。

 

エジプト神話のオシリス神は麦から酒を造り、豊穣(ほうじょう)の女神イシズが人間に教えたとされ、その酒がビールである。「週刊少年ジャンプ」で連載されていた高橋和希先生の漫画「遊☆戯☆王」では「オシリスの天空竜」というモンスターが登場するが、おそらくオシリス神がモデルであろう。イシズという女性も登場するがこのキャラもここから取ったのだろう。初期の「遊☆戯☆王ファン」ならばピンと来るはずだ(笑)。近年では、大麦などの穀物と共にメソポタミアのシュメールよりエジプトにビールが伝わったと考えられている。

オシリス

画像出典「ウィキペディア(Wikipedia)」より

ローマ神話ではワインの神である酒神バッカスがおり、ギリシャ神話ではディオニューソスと呼ばれた。ワインは当時、ブドウを大きな樽に入れ、若い娘が踏んでそれから醸造していた。

旧約聖書によるとノアの方舟で、神がブドウの栽培とワインの作り方を授けたとされる。

キリスト教ではワインは「神の血」として尊ばれ、洗礼にも用いられる。

仏教においては原始仏教では禁酒だったが般若湯(はんにゃとう)として酒を用いる習慣もあり、比較的寛大である。

 イスラム教・ヒンズー教は禁酒だ。罰則として罰金やムチ打ちの刑が存在する地域もある。だがトルコなどのイスラム教の少数派アレヴィー派では飲酒は合法とされている。

 

 

口嚙み酒

 

口噛み酒は穀物を口に含み噛んでは吐き出す、また噛んでは吐き出すことを繰り返し醸造して造る。古代日本では巫女がその役目を果たす。西洋ではワインのブドウ踏みも若い女性がやっていた。若い女性という共通点が見えてくる。世界共通に男、おじさんやおばさんではダメのようだ(笑)。古代日本、アイヌ、沖縄奄美諸島中南米、アフリカなど世界中で作られていたが、アマゾン奥地でしか残存しない。また、口噛み酒は日本列島への渡来時期や文化的に日本酒の原形ではないと考えられている。

 

日本酒の起源

 

『播磨(はりま)の国風土記』に716年、干し飯が水にぬれてカビが生え、それを用いて酒を造り宴会をした記述があり、コウジカビの酵素による糖化作用で、日本酒の原型、元であると考えられている。  

名酒の里、神戸の灘地域の地層から出る「宮水」(ミネラル豊富な硬水)は「宮水三葉」の名前の元ネタなのではないか?さらに「立花」という苗字は兵庫県でも多く、もしかしたら三葉の先祖は瀧の先祖と杯を交わしていたり、前世でも出会って結ばれていたのかもしれない。そんな想像も確かなものではないかと思う。だとしたらロマンチックだ。

 

現在も吞まれている日本酒でも、名酒の酒処(さけどころ)と呼ばれる場所が存在する。

 

「三大酒処」は兵庫の灘と京都の伏見、広島の西条である。

1.兵庫の灘――辛口の男酒と呼ばれることも。水は硬水。(宮水)

菊正宗酒造

 

画像出典元「SAKE TIME

 

 

剣菱酒造

画像出典「楽天市場」より

 

 

 

 

2.京都 伏見――稲作伝わる弥生時代から酒造りがなされていた様だ。甘口で肌のようになめらかな感触で女酒とも呼ばれる。

 

玉乃光酒造

画像出典「玉乃光酒造



 

 

京姫酒造

 

画像出典「株式会社 京姫酒造」より

 

3.広島 西条――吟醸酒の里とも。軟水。

賀茂鶴酒造

画像出典「賀茂鶴直営オンラインストア」より

 

 

「四九年一睡の夢一期の栄華一杯の酒」とは戦国時代の武将、上杉謙信が残した言葉であるが、なるほど人生とは名だたる武将の中でも強かった謙信にしてみても短いと思ってしまう儚いものだったのだ。

しかし、今の超高齢化社会では80歳、90歳生きることは当たり前になってきている。謙信がこの時代を生きていたらどんなことを成し遂げていたのやら。

 

 

 

「結び」のテーマ

 

君の名は。」の「結び」のテーマには、瀧と三葉の出会い、そして視聴者達との縁、瀧と三葉が再び出会わないかとみんなで願うこと、監督の考え、作品を作り上げたスタッフの心が劇場で一つの輪になる「結び」なのではないか。

袖すり合うも他生の縁。この作品を通して、私自身、これを閲覧してくれる視聴者との縁もまた、「結び」なのである。