ロディニアのアニメその他ブログ

アニメについて自分なりの考えを書いています。アニメ以外のこともやります。

尾崎豊とカート・コバーン(NIRVANA)について思うところ

尾崎豊カート・コバーン

 

日米それぞれの国を代表するカリスマであり、新しい音楽を創った。そして短命でこの世を去った……。カート・コバーン尾崎豊、この二人にはいくつもの共通点が存在する。

 

尾崎豊は私が小学生の頃、「15の夜」の歌詞『盗んだバイクで…」と不良の歌かと思えば、「I  LOVE YOU」の『悲しい歌に愛がしらけてしまわぬように…』ときれいな儚いラブソングであったり、不思議な世界観を持っているアーティストだなあと子供ながらに思ったような気がする。高校になってから「卒業」の歌詞にある『夜の校舎窓ガラス壊してまわった』という歌詞の行動に憧れを抱いていた。どうしてこんなに嫌な学校に行かなくちゃならないんだと本気で思っていたのだ(笑)。


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カート・コバーンとの出逢いは大学一年生の頃に洋楽好きな友人に紹介してもらい、特に「Smells like teen spiritスメルズ・ライク・ティーン・スピリット)」をヘビーローテーションで聴きまくっていたが、二年生の冬に、一年生の頃に買って挫折した初心者用エレキギターセットに、当時塾のアルバイトをしていて出勤兼私の送り迎えをしてくれた先輩に、「[NIRVANAニルヴァーナ)]知ってるの? 自分もギターも少しやるんだ。「Smells like teen spirit」ならギターかなりシンプルで弾きやすいよ」と言われて、さっそくTAB譜をダウンロードし、パワーコードを練習し、ソロパートを練習し、人生で初めて丸々弾けるようになったエレキギターの曲となったのだ! パワーコードの練習のおかげで自分のギターの実力がみるみる上がっていったことを当時実感したことを覚えている。だから私は今でもギターをやっているのだろう。私の生涯の思い出に残る一曲である。


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共通点1 二人ともカリスマ

カート・コバーンは、ロックバンド「NRVANA(ニルヴァーナ)」のフロントマンであり、ギタリスト、リードボーカリスト、メインソングライターとして活躍していた。怒りに満ちた曲作りと反体制的な人物像を通して、コバーンの作曲は、主流のロック音楽のテーマ的な慣習を広げた。オルタナティヴ・ロック(産業ロックやポピュラー音楽とは一線を画し、アンダーグラウンドの精神を持つロックのジャンル)の歴史の中で最も影響力のあるミュージシャンの一人とされている。コバーンはシアトル発の「グランジ」というジャンルのロックを一晩で音楽シーンの最先端に押し上げた。セカンドアルバム「Nevermind(ネヴァーマインド)」(1991年)に収録された「Smells Like Teen Spirit」で世界的な成功を収めた。ファッションも穴の空いたボロボロのジーンズに擦り切れたネルシャツ、赤黒ボーダーなどの古着にくたびれたカーディガンと世界的に影響を与えた。オシャレにこだわらないところが時代的に受けたようだ。            

1991年に発表した『ニルヴァーナ』の2ndアルバム「ネヴァーマインド」はBillboard 200でそれまでトップだったマイケル・ジャクソンの「デンジャラス」を引きずり降ろし1位を記録、MTVではシングル「Smells like teen spirit」がリピートされるなど、当時のアメリカ音楽界に衝撃を与え、ロックシーンがヘヴィメタルから一夜にしてグランジが新たなトレンドとなった。

さらに『ニルヴァーナ』は、全世界で7,500万枚以上のレコードを販売した、史上最も売れているバンドのひとつである

コバーンが8歳の時に両親が離婚。最初は父の元へ引き取られる。トレーラーハウスの中でロックバンドの、ビートルズブラック・サバスレッド・ツェッペリンエアロスミスを聴いて育ち、14歳の誕生日にギターを買ってもらい急速に音楽にのめり込んだ。トレーラーハウスで聴いていたアーティストたちは自身の音楽に強く影響を与えたと後にインタビューで語っている。

 私は特に『ニルヴァーナ』の「You Know You’re Right」という楽曲が好きである。

I will never bother you 絶対お前を悩ませたりはしない
I will never promise to
 約束はできないけどさ
I will never follow you
 絶対お前の後をつけて行ったりしない

から始まり、サビでは

Pain Pain Pain 痛み、痛い

You know you’re right お前は正しいと知っている
You know you
’re right お前は正しい
You know you
’re right そうだ。お前は正しいとわかっている

という歌詞が、物々しいディストーションエレキギターのひずみの強い音)のきいたメロディーの中でコバーンのカッコいいシャウトで唄われる……。まるで別世界にいるような、怒りにも失望にも似た、混沌とした感情が湧き出ているような。私は当初ものすごい凄みを感じとったように思う。


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尾崎豊1983年昭和58年)12月シングル15の夜」とアルバム十七歳の地図』で高校在学中にデビュー。ライブでの派手なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに表現した曲である。尾崎はシンガーソングライターとして十代が十代へと、同世代に向かってメジャーレーベルで曲を描いた。その頃感じた社会からの疎外感、葛藤などを曲に描き、同世代の若者たちからカリスマ的な圧倒的支持を得た。他にも「僕が僕であるために」「卒業」など若者の苦悩を唄った。

ジャクソン・ブラウンビリー・ジョエル浜田省吾佐野元春井上陽水甲斐バンドさだまさしなどから強い影響を受けている。

尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった。あらゆるフォークソング、シンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた。

高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBSソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し、CBSソニーのオーディションに合格する。

十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどしかなく、事務所やレコード会社も消極的でありプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。

しかし、その後口コミにより人気が出て、4thシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした曲を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた。校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが現れていた時代世相と相まって一部の若者の間で熱狂的に受け入れられ社会現象となる。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

当時の「シンプジャーナル」編集長・大越正実は「尾崎が3年前にデビューしていたらバカにされたんじゃないかと思う。ちょうどフォークソングを見直しする機運があり、若い人たちが"軽薄短小(価値が少ないこと)"に不安になってきて、言葉を聴き始めたからではないか」などと評している。(ウィキペディアより)

 

 

共通点2 高校中退

 

カート・コバーン 画像出典元「billboard JAPAN」


 

コバーンは幼少期に両親が離婚。学校では「ゲイの友達」がいるために同性愛嫌悪者のいじめのターゲットになることが多かった。高校のクラスメイトの音楽的才能は決してコバーンと見合うものではなく、時にそれが彼を大いに苛立たせた。また、彼が演奏したかったのはパンク・ロックであったのに対し、周囲の人間はヘヴィ・メタル志向であったことも、彼にとって大いに気に入らない点であった。そんな苛立ちからか、次第に周囲との折り合いが悪くなる。また、高校では学費が払えずに中退し、その中退した高校でモップかけのアルバイトをしていた……。同級生が楽しそうに青春を送っているのをしり目に屈辱的な気持ちだったことだろう。そう思う。彼のバンド「ニルヴァーナ」の楽曲「Smells like teen spiritスメルズ・ライク・ティーン・スピリット)」のMVでモップがけする老人をさせ登場させていて、コバーンが高校の学園祭でこの曲を歌っている、二重構造の意味深なそんな演出にしている。コバーンにとって忘れられない経験だったのだろう。しかし、それをジョークとしてMVに登場させているところに、カート・コバーンの屈辱にも負けない意思が見て取れる。そしてそこから世界的バンドへと羽ばたいていくのだ!

 

尾崎豊 画像出典「Sony Music ソニーミュージックオフィシャルサイト」

 尾崎豊は小学5年生の時に転居し、市内の公立小学校へ通うこととなる。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして実際には登校していない日々が続くようになった。私も似たようなことを高校時代にしていたので共感できる(笑)。

小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間井上陽水さだまさし、イルカの曲をギターで弾きながら歌う日々が続いていたという。

高校受験では、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した。少年工科学校では髪を短くしなくてはいけないと知り、それを嫌った尾崎は青山学院高等部に進学することを決めた。尾崎は問題児ではあったが、学業でも優秀だった。

しかし、喫煙やオートバイでの事故での停学処分や飲酒での乱闘騒ぎで無期限停学になってしまう。単位が足りなく留年になるので自主退学した。

 あるコンサートで尾崎は、「俺が学校を辞める間際。最後に随分、熱心に頑張ってくれた先生が、俺にこんなことを言ってた……『本当は教師なんて、踏み台にしていけばいいんだ』って……。」と静かに聴衆に向かって言った。そして「卒業」を歌いだしたのだ。すごくカッコよく感動的なシーンだが、尾崎豊にとってその教師への感謝と自分のした退学への後悔と心残りのように聴こえてならない。

 

 

共通点3 違法薬物摂取

 コバーンは少年時代からの双極性障害と20歳頃からの持病であった原因不明の胃痛に対する鎮痛剤として使用したことに端を発する薬物依存症に苦しんでいた。さらにヘロイン中毒にもなっていたとされる。94年の3月、鎮静剤の過剰摂取で入院するが、脱走。そして更なる取り返しのつかない悲劇が起こる……。

I'm so happy 'cause today(今日はなんだか気分がいいよ)

I've found my friends ...(友達を見つけたから)

They're in my head (俺の頭の中にいたんだ)

I'm so ugly, but that's okay, 'cause so are you ...(俺は不気味さ。でもまあいいか。お前もそうだからな。)

これはニルヴァーナの「リチウム」という曲の歌詞の一部だが、「リチウム」は薬品として精神病に処方されることがある。そこからまるで麻薬を連想させる様な歌詞になっているように聴こえるような気がする。コバーン自身に処方されていたのかもしれない。


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尾崎はツアーの途中で倒れツアーが中止になり、肉体的疲労から覚せい剤に手を出し、覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的にもまいっていた。しかし結婚し長男が生まれ、新たな門出を決意した尾崎はアルバムでオリコン1位を記録。大規模ツアーを行うも、所属事務所やマスコミへの猜疑心(さいぎしん)が晴れることはなく、個人事務所を立ち上げるも多忙に追われ、再び精神的に追い込まれ自殺未遂をしてしまう。

尾崎の曲の「僕が僕であるために」の歌詞『僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない』と歌っている通り、自分に厳しい人であったのだろうと思う。負けることを認めないことは強さにつながるが、同時に硬直し折れやすい自分になっているのかもしれない。それがゆえに自殺未遂が勝ち続けようとした結果だとしたら何だかやるせない思いがする……。それでも尾崎は音楽と向き合うのをやめなかった。


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共通点4 結婚して子供がいる

コバーンは配偶者にホール(ロックバンド)のコートニー・ラブがいる。娘はフランシス・ビーン・コバーン。コートニーとは23歳の時に結婚。式を通してカートはパジャマ姿であった。忘れ形見のフランシスはモデルを務めている。(2014年)フランシスはジ・イーリーズ(ロックバンド)のイザイア・シルヴァと結婚したが、2年後の(2016年)に離婚が報じられた。そして2023年には伝説的スケートボーダーのトニー・ホーク(55)の息子ライリー・ホーク(30)と2度目の結婚をした。式はオルタナティブロックバンド、R.E.M.のボーカルで、フランシスのゴッドファーザーであり、生前のカートとも交流があったマイケル・スタイプが執りおこなった。

フランシス・ビーン・コバーン(左)とライリー・ホーク(右)画像出典「SPUR.JP」



 

尾崎は22歳で一般人の女性と結婚、翌年長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBSソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪(しょくざい、罪を償うこと)」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

 

尾崎 裕哉(ひろや)尾崎豊の息子。

尾崎裕哉 画像出典「東京新聞」

2歳の時に父が死去。その後5歳頃に母とアメリカ合衆国・ボストンに渡り、15歳頃までを過ごす。そのため英語が堪能である。

慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科修士課程を修了。

2016年9月5日にメジャー・デビュー・シングル『始まりの街』のデジタル配信が開始。父と同じでギター、ピアノができる。


www.youtube.com  「始まりの街」

 

 

 

共通点5 二人とも若くして亡くなっている

人生の最後の数年間、コバーンはヘロイン中毒や、双極性障害などの慢性的な健康問題に悩まされていた。1994年4月8日、コバーンがシアトルの自宅で死亡しているのが発見された。警察は、コバーンが頭部をショットガンで射ち抜き死亡したと結論づけた。27歳没。

遺書には強烈な筆圧で、親交のあったニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞の一部「It's better to burn out than to fade away(だんだん消えていくよりも燃え尽きる方がいい)」が引用され、ステレオからはR.E.M.のアルバム『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』が流れっぱなしになっていた。遺書には他にも有名になったことへの苦痛が記されていたという。

コバーンは死後、ニルヴァーナのバンドメンバーであるクリス・ノヴォセリックデイヴ・グロールとともに、資格を得た初年度の2014年にロックの殿堂入りを果たした。ローリングストーン誌では、「史上最も偉大な100人のソングライター」、「史上最も偉大な100人のギタリスト」、「史上最も偉大な100人のシンガー」の3リストにコバーンを入れている。また、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大なシンガー」で7位に選ばれている。

1970年前後に話題となっていた『27クラブ』を4半世紀ぶりに決定づけたことでも知られる。カートの母は「あの子は愚か者のクラブに仲間入りしてしまった」と嘆いたという。

Smells like teen spirit」の最後の歌詞で、『A denial(拒絶)』という言葉を何度も歌って終わる。まるでコバーン自身のこの世界への思いであるかのように……。

ロックの世界を変えた男としては、あまりにも早い、そしてあまりにも衝撃的な最後に思えて仕方がない。


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 ※『27クラブ』とは、世界的に名声を手に入れた音楽家や俳優などの若者が、何人も27歳で怪死していることからつけられた名称で、特に有名な人物が、音楽家ではブルースギタリストのロバート・ジョンソン、ロックバンド「ローリング・ストーンズ」の元リーダー、ブライアン・ジョーンズエレキギターの神様ジミ・ヘンドリックスサイケデリックロック黎明期(れいめい期)の立役者ジョニス・ジョプリンなど。日本人では古くは歌人源実朝(みなもとのさねとも)、詩人の金子みすゞ、俳優の夏目雅子などが挙げられる。

 

 

尾崎は、1992年(平成4年)4月早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された5時45分ごろ、通報で病院に運び込まれる。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る。しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が119番通報。病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した。死因は肺水腫だった。26歳だったが、数え年だと27歳であり、コバーンと同じ『27クラブ』の一員とも言われている。後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区の護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近くに上り、規模は美空ひばり吉田茂に匹敵するものとなった。

 

 

この二人は私の青春時代にとって切っても切れない関係にあると思う。私はこの二人の奏でるメロディーと歌詞に勇気づけられてここまでやってきたように感じる。おそらく読者の諸君もそうかもしれない。

忘れてはならない。二人とも苦難を乗り越えて短い人生をまるで稲妻のように激しく駆け抜けた、偉大なアーティストであり、今もなおその生きざまと音楽で人々を勇気づけているのだということを。

 

7月11日は、米国のDJアラン・フリードが『ムーンドッグズ・ロックンロール・パーティー』という番組を立ち上げ、チャック・ベリーやリトル・リチャード、レイ・チャールズといった黒人アーティストの音楽をラジオでへビーローテーションで流す番組として成立させた日である。流す曲のほとんどを「ロックンロール」と呼称して紹介し、「ロックンロール」という種類の音楽の呼び名を創ったのが1951年のことだ。

そんな日にこの記事を上げられることを光栄に思う。

「天空の城ラピュタ」について思うところ

天空の城ラピュタ」について

画像出典元「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ



「ある日、少女が空から降ってきた…」

 

伝説の天空に浮かぶ城「ラピュタ」……少年パズーと少女シータは海賊ドーラ一家、軍隊、特務機関とラピュタをめぐる争いの中に身を投じていく……。

 

少女が空から落ちてくる。なんと信じられない導入なのか。だが、そこに奇跡は隠されていた。より感動的に伝わるように少女がつけていたネックレスの宝石が輝いたと思ったら少女の体がゆっくりと降下していく……

 

天空の城ラピュタ」は、宮崎駿監督の長編アニメ映画であり、王道の冒険活劇で、見ているとワクワクするとても魅力的な作品である。また、この作品を知らなくても呪文「バルス」はツイッター(現X)などで見かけたことがあるのではないか。

地上波のテレビ番組でこの呪文を発するタイミングで「バルス」とツイートする企画を考案した者がおり、皆で実践し、トレンド入りしたことがあった。

 

私は幼稚園の時から見ているが、数年毎に定期的に見るといつでもハラハラ、ドキドキ、ワクワクした気持ちで見ることができる、これぞ冒険ロマン! な作品である。

 

 

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

少年は空を見上げる、そうすると空中をゆっくり落ちてくるものがある。一人の少女。そう、一人の少女がゆっくりと落ちてくる。シータだ。それを受け止めたのが少年パズーであった。

パズーの住む「スラッグ渓谷」は(「スラッグ=鉄や錫(すず)を精錬した時の残りカスのこと」であり)、資源が枯渇しているのだ。栄えていたころの面影もなくなり穴だらけで、それでいて採掘した鉱物を運ぶ鉄道が張り巡らされている。過去の遺物が残っているが、実はとても貧しい街なのだ。その街で奇跡が起きる。

その街で暮らすパズーは渓谷の上にある実家で早朝にトランペットを吹くのだが、その時に射してくる朝陽がとても奇麗であり、その輝きがこれから何かが起きるという予感を視聴者に感じさせ、粋だと思う。

 

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」


パズーとシータは黒服の男たちに追われ、彼らから逃れるために地下の坑道に入ったのだが、その時にパズーはシータに目玉焼きパンを分けてあげる。目玉焼きのテカリが美味しさをそそるジブリご飯だ。ジブリに出てくる食べ物は、本当に美味しそうに描かれている。食べ物が生きる上で不可欠だと訴えているかのように。同監督の作品「ハウルの動く城」のベーコンエッグなどは圧巻だと思う。卵の白身のトロみが、見ていて絶品なのだ!

 

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

このシーンの二人で分け合う「半分コの目玉焼き」が二人合わせて一つになるというトランプのワンペアみたいな二人の関係を表しているように思われる。ワンペアになるとは個々でいるより特別な関係で、引き離すことも難しくなる。さらにスリーカード、フォーカードとより強くなる可能性がある。二人はこれからも仲良しですって、こうして生きていくような、ロマンスにも見て取れてなんとなく頬が緩むような気がする。ニヤニヤしてしまう(笑)

 

 

ポム爺さん 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」


ポム爺さん

 

坑道で会ったポム爺さんはパズーの知り合いであり、彼の祖父がラピュタ人のことを言ったと語る。もしかするとポム爺さんはラピュタが忘れられた存在ではないことを証明しているのではないかと思う。ひょっとしてポム爺さんはラピュタ人の末裔ではないか? だから飛行石の話を知り、本物の飛行石に驚き、ラピュタ人のことを話したのではないか? と。

 

画像出典 岡田斗司夫プレミアムブロマガ『天空の城ラピュタ』解説:3 ...

 

坑道の出口でパズーが手を伸ばし、シータがポム爺さんからパズーへと託されるシーンがある。これは古いラピュタ人から新しい若い少年へとラピュタの姫君が預けられるというパズーとポム爺さんとの対比を表しているのではないか? また、それは新しい未来を担うべき少年へと託される、古いしきたりからシータが解き放たれるということを意味しているのではないか。それと同時にシータには守られるものから自立したことにより自分の行動に責任が生じることとなり、それを守るのがパズーの役目であることのように思える。パズーの背後から光が差し込むことにより、それをはっきり予感させているように思える。

 

 

パズーはなぜ金貨を捨てなかったのか?

パズーが金貨を渡され、失意のまま家に帰るシーンがある。途中で転んで、金貨をばらまいてしまい、拾って投げ捨てようとするのだが、こらえて弱々しく家へ入ろうとする。私が子供のころ初めて見たときは、投げ捨てるなんてなんてもったいないことをするんだと、もったいないという気持ちが強かったのだが、さすがに年齢を重ねるにつれて「そんなシーンじゃないよ」と分かってきたのだ(笑)

 

このシーンの意図するところは、シータを助けられなかったという己への無力感、シータを助けると自分に誓ったのに、自分の助けを必要としないとシータが選んだことだからと落ち込んだ絶望、それは、パズーからするとシータの裏切りにも似た行為なのだ。そしてそれを割り切ろうとする心と、貧乏暮らしの自分にとっての金貨の価値があまりにも大きいこと、それらに揺れ動く心からなのではないか? いや、ラピュタを見つけるという父との夢を達成できないことへの絶望、初めてのシータへの恋の終わりへの絶望感、自分の人生への絶望感があったからではないか? しかし、父の無念を晴らすため、努力家のパズーは生きなければならない……また金貨を投げ捨てなかったことは、シータの運命あるいはシータとの運命を投げ捨てなかったことと対になっているのではあるまいか。それ故の行動ではなかったのではなかろうか? 

 

「40秒で支度しな!」

画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

これは、ドーラがパズーを仲間に引き込む時にシータを助ける覚悟があるのか訊いてから言う言葉だが、こんなにワクワクするリベンジがあるだろうか? ムスカから受けた屈辱を晴らす時が来たのだ。パズーはシータを助けたくて、家にも帰らない覚悟でドーラ一家に入っていくのだ!

 

パズーの父と母

パズーの家の壁には冒険家であるパズーの父親の飛行船にそれとパズーの父親が撮ったラピュタの写真があるが、それとそっくりな飛行船が存在している。アルベルト・サントス=デュモンの飛行船だ。おそらくその船がこの作品のモデルなのだろうと思う。アルベルト・サントス=デュモンはブラジル生まれで、ヨーロッパ航空機発明のパイオニア的人物である。18歳のときに父親が仕事中に落馬し骨盤を骨折、治療の甲斐なく他界した。実家のコーヒー農園経営が不可能になったため、家族で祖先の国であるフランスに渡りそこで技術を身に付け、飛行船にヨーロッパ発で、ヨーロッパ初の初期の飛行機の発明、さらに未完に終わったもののヘリコプターも開発していたという。

パズーの家の写真棚 画像出典「空中庭園と幻の飛行船」



パズーの家の写真棚 画像下にパズーの母親と思われる写真がある。

パズーの母親と思われる写真 画像出典「空中庭園と幻の飛行船」

 

ラピュタとロボット

なぜ「ラピュタ」では戦闘用ロボットのデザインはわかるが、庭師のロボットまでがまがまがしい戦闘用ロボットと同じデザインなのだろうか?

日本では少し前からペッパーくんなどのかわいらしいロボットが接客のお手伝いをしている。

画像出典「SoftBank Robotics]

 

Pepperくん

人間は、温かみのあるどこか柔らかさのあるものを自分の周りに置きたがるものであるロボット犬アイボもそうであろう。一体ラピュタ人はどんな感覚を持っていたのだろう?

 

アイボ 画像出典「リクルートワークス研究所」

ラピュタの戦闘用ロボット 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

ラピュタの庭師ロボット 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

もしかしたら、古代ラピュタでは争いが絶えず、それ故におとなしい庭師ロボットも時々戦闘に参加していたのかもしれない。ラピュタ人にとってのボディーガードだったとも考えられる。確かにラピュタのオープニングでたくさんの島が空を飛んでいる姿が見られる。それぞれの島に王がいて、常に争いがあったのかもしれない。

 

 

ラピュタ」を見つけることに挑んだパズーの父親のように、現実でも人と違った人生をおくったり、不可能を可能にしてきた人たちがいる。そこには、挫折を乗りこえるための心の戦いや支えがあったのではないかと思う。そんな心の助けとなった言葉を、少し記したいと思う。

人は誰もがどう生きたらいいか迷うときがあるかもしれない。もしも人生に迷ったとき、役に立ってくれると嬉しい。

 

人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって達成された。

――ビル・ゲイツ ――― アメリカの実業家、マイクロソフト共同開発者

 

道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。

――漫画ドラえもんドラえもん)――― 藤子・F・不二雄

 

自分の信じる通りやってごらん。でもなあ、人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても、誰のせいにもできないからね。

――「耳をすませば」――― 月島靖也(せいや) 主人公、雫の父親 

 

 

科学の恐ろしさとラピュタ

ラピュタに搭載されている兵器を、『旧約聖書』のソドムとゴモラを焼き払ったという「天の火」やインドの民族叙事詩『ラーマヤーナ』の「インドラの矢」だとムスカは作中で言っている。以上の兵器は、とてつもない火力をもつ武器で、かつて古代に核兵器が存在したと言われた伝説からきている。

堀越二郎の半生を描いた「風立ちぬ」で彼は零式艦上(れいしきかんじょう)戦闘機、通称『零戦』を設計した。でも、発達した科学は兵器として戦争に利用される、と宮崎駿監督は登場人物カプローニに言わせている。ラピュタでも、ラピュタ人の発達しすぎた科学によってラピュタ人自らが滅ぶ原因となったのだと、「天空の城ラピュタ」の頃から宮崎駿監督は科学の力は恐ろしいものだと言っていたのではないか。元をたどれば、同監督の「風の谷のナウシカ」も科学の力が『火の七日間』という戦争によって世界が滅んだ後の世界であり、おそらく宮崎駿監督の初監督作品、世界戦争後の世界を描いた「未来少年コナン」の頃からこのことを警鐘しているのではないか。

少し話は変わるが、原子力は、まだ人類が持て余しているもののように思う。ドイツでは再生エネルギーを導入して国の電力消費量の43%を再生エネルギーが占めている(2022年。内訳は風力21%、太陽光とバイオマスがそれぞれ9%、水力が4%である)し、日本では再生エネルギーは全体の約22%である。核エネルギーは、もう少し未来で科学技術が追いついた時に、人類を助けてくれるものとしなければならないのではあるまいか? 宮崎駿監督は、そんなこともこの作品で言っているような気がする。

 

クラークの三法則と飛行石

幼年期の終わり』、『2001年宇宙の旅』などを書いたイギリスのSF作家アーサー・C・クラークが定義した三つの法則をクラークの三法則と呼んでいる。それは、

第1.高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている

第2.可能性の限界を測る唯一の方法は、その限界を少しだけ超越するまで挑戦することである。

第3.十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。

 

以上がクラークの三法則であるが、飛行石は第3の法則に当てはまるように思う。

人を宙に浮かせたり、呪文で様々なことが発動したり、あの大きさの物体でそんなことが出来るなんてまさに魔法だ。このサイズでシータを浮かせるには相当なエネルギーが必要であり、作品の冒頭にシータがあの高さから落下するとき、それを阻止してゆっくり落下させることなんかは核反応並みのエネルギー源が必要かもしれない。それをこの飛行石はやってのけるのだ。またラピュタの中枢にある『黒い石板』を飛行石で操ればラピュタの兵器などを意のままに操ることも出来る。だが超科学の設定である。宮崎監督はSFにも詳しいのできっとそういう設定にしたのだろう。ラピュタの王族といった特定の血筋の声に反応することもとても不思議だ。

光を放つ飛行石 画像出典「天空の城ラピュタ‐スタジオジブリ」

 

サファイア 画像出典「ウィキペディア」

 

 

カボションカットされたラピスラズリ 画像出典「YAHoo!Japanショッピング」

 

飛行石は、鉱物的にはやはり宝石サファイアかラピス・ラズリ(青金石)が元ネタなのではあるまいか? だが深く澄んだ青色なのはラピズラズリにはない特徴だ。どちらも深い青色だがラピズラズリは不透明なのだから。

そういえばジブリアニメ映画「耳をすませば」で、主人公の月島雫が、躍起になって小説を書いていた時、「ラピズラズリの鉱脈が~」という文章を書いていたが、もし、それが実は飛行石からアイディアを持ってきているとしたら面白い。

シータの持つ飛行石は、カボションカットされていて、楕円形に磨かれている。これはオパールトルコ石など不透明な宝石に用いられるカット法である。

 

ラピュタの飛行石 画像出典「ジュエルエイト」

 

実は、「天空の城ラピュタ」には、ラピュタ人は実は宇宙から来たという設定がある。

宮崎駿監督が描いたイメージボード 画像出典「東京セブン アニメ」

 

イメージボード拡大  画像出典元「適正Perfume論 全身蜂の巣」

 

「天より現人神(あらひとがみ)降臨したまいし時、神の秘跡として宙に浮かびあがった古き町。今、世界を統べる聖都として空に君臨している」と書いてある。

だから時代にそぐわない高い文明水準を誇っていたのだ。

 

「人類の祖先は宇宙人説」というものがあるのだが、確かに古の、時代を考えると実現不可能なものがこの世に多数存在する。それらを「オーパーツ」というのだが、特に南米ペルーの『ナスカの地上絵』なんてどうやって描いたのかまるでわからない。どう考えても空中から何らかの指示などがなければ作成できないだろう。また、イギリスの巨石遺跡のストーンヘンジなんかもどうやって組み立てたのかいまだに謎である。

 

ナスカの地上絵『コンドル』 画像出典「ウィキペディア」

パズーとシータが歩いたラピュタの部分は神殿部で、巨木と外が透けて見える壁に囲まれている。神のために未知なるテクノロジーが使われているところにラピュタ人の神への科学的信仰が見て取れるのではあるまいか?

パズーとシータが見た、水没したビル群は位置的におそらく第2層、騎士たちの居住区だったと思われる。少なくとも深さ(高さ)100mはあるように思う。中世ヨーロッパ、あるいはアラビアを思わせる造りの街並みのようだ。

 

ラピュタの階層

天辺=神殿

第1層=天帝のいる界

第2層=騎士の界 12神将の塔

第3層エデンの園

旧約聖書『創世記』の記述によれば、エデンの園は「東のかた」にあり、アダムとイヴに、エデンの園を耕(たがや)させ、守らせるためにヤハウェによってそこに置かれ、そして食用の果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられていた。

 

第4層は労働者などの平民が暮らす居住区という設定らしい。ポム爺さんの先祖はおそらくここの出身で、ポム爺さんは子供のころから親や祖父から飛行石やラピュタの話をきかされていて王族の末裔シータの飛行石を見て驚きのあまり思わず体が動かなくなったのではあるまいか? 

ポム爺さんは運がよかったように思う。「わしのじいさんがいうとったよ。岩たちがざわめくのは、鉱山の上にラピュタがきとるからだ、とな」と発言しており、自分の祖父から聞かされていた「飛行石とラピュタ人」の伝説のようなものにじかに触れることが出来たのだから。パズーとシータのおかげで自身の起源や伝説が真実であったことを知れたのだから。シータに言った言葉「力のある石は人を幸せにもするが、不幸を招くこともよくあることなんじゃ。まして、その石は人の手で作り出されたもの。その……気になってのう」と、人が作り出した石に関して警鐘を鳴らすようなことを言っている。ラピュタ人が滅んでいったように、人は人の手によって破滅へと突き進んでいく……物語の中でも現実の世界でも……そんなことがあるかもしれないと宮崎駿監督が言っているような気がする。

科学が発達すること自体は悪いことではないのだが、それを扱う人間がいつの時代も不完全なのだ。それがこの作品のテーマの一部なのではあるまいか?

 

 

天空の城ラピュタ」のパンフレット及び小説前篇の見返しでは「ラピュタ」の元ネタの説明がなされており、空中都市の描写のあるジョナサン・スウィフトの著書『ガリヴァー旅行記 第三章 ラピュータ』のモデルは、古代ギリシャの哲学者プラトンの失われた地理誌『天空の書』に記された「ラピュタリチス」であると。ラピュタリチスは、かつて地上で一大技術文明が栄えた時に戦争を嫌い、天空へと逃れた一族によって築かれた広い領土を持つ浮島だったが、余りに高度に発達した文明生活の末に、ラピュタ人は生命力を失い、人口は減少し、紀元前500年頃に突如発生した奇病により、その後滅亡したとされる。だが、一部の人々は地上へ降り、姿を隠しながら生き延びたと伝えられている……これが「ラピュタリチス」であるが、「天空の城ラピュタ」では19世紀、1800年代から700年前に放棄されたと作中でムスカが言っているので約1100年代に無人になったことになる。

一期一会のラピュタ

ラピュタという城と、パズーとシータとの二人はまさに一期一会の出会いであったと思う。一期一会とはおそらく最も広く知られているだろう禅語で、絶えず変化する世の中で年老いて、死へと向かっていき止めようがない時の流れ、その生涯(一期)で誰かと出会うひと時も「一会(一回きり)」のものだ。だから二度と戻らないその時を精一杯の思いを込め相手と接し充実した時間を共有しようという意味のある言葉で、茶の湯では亭主、席、客人、道具が全く同じでもそれぞれが一回限りのものと考える。同じ茶会は二度とないので全身全霊で茶の湯に向き合い、打ち水や活ける花、お香、掛け軸など細部に至るまでできる限りの配慮をする。まさに最高のおもてなしなのだ!

普段私たちは一期一会の心をもって人に向き合っているだろうか? よく顔を合わせる人には「どうせまた会える」と思っているのではないか? しかしいつ会えなくなるかわからない。現にラピュタは一日であの有様になってしまったのだから……。

ラピュタ城との出会いは、パズーとシータにとってまさに「一期一会」なのではないか? いくらあこがれていても、たったの一回しか行くことが出来ない。その中でムスカたちとの闘い、ラピュタの秘密といった冒険感が観る者にとって心地良いのではないか?

私も身近にいる人にも同じように「一期一会」の心で接してみたいと思う。

 

またまた禅語であるが、『和敬清寂(わけいせいじゃく)』とは茶の湯と禅の心を表している禅語だ。「和」とは、人にも自然にも和み逆らわないこと。「敬」とはすべてに敬いの心を持つこと。「清」とは一点の塵も汚れもない清い佇(たたず)まいと心でいること。「寂」とは煩悩にとらわれず静かで不動の心でいること、だそうだ。

これらが一体になって和もうとする気持ちがあって相手を認め、お互いを敬う気持ちが生れてくる。敬愛の念をもって尊重しているから自然に相手に対していつわりのない清らかな心が持てる。そして清らかな心は迷いもなく静かでいて何事にも動じない。まさに茶の湯の世界でのありかたを示す言葉である。

 「和」として純粋にラピュタをこの目で見てみたいと言っているパズーやシータにとってラピュタにいる時間は、ラピュタの庭師ロボットや風景、高度な文化を持っていたんだと敬い、静かに古のラピュタに思いをはせていた……。まさに「和敬清寂」なのではあるまいか? ラピュタは宝島でも破壊兵器でもなく、自分たちのルーツを知る手がかりなのだとパズーもシータも思ったのではないか?

 

 

禅「心の大そうじ」本アマゾン

 

 

天空の城ラピュタ」の後日談で、ゴンドワの谷に帰ったシータに、お手製のオニソプター(羽ばたき飛行機)でパズーが会いに行こうとする、という話がある。しかし宮崎監督は、いろんな人々がオニソプターで空を飛ぼうとしてきて失敗している歴史があるのに子供のパズーが一発で成功させられるわけがないと、あえてその描写は映画にはしなかったそうだ。飛行機マニアの宮崎監督ならではの、本当に空に挑戦した人々に敬意を払っているなぁと感心させられるエピソードだと思う。

オニソプターとパズーとシータ 画像出典「空中庭園と幻の飛行船」

 

脚注

――ビル・ゲイツ ――― アメリカの実業家、マイクロソフト共同開発者

Microsoft Windows95を発売。WindowsOSを開発した。Windowsは世界シェアNO.1となった。また、徹底的な合理主義者の一面もあり、「日本のマイクロソフトはこんな無駄遣いをする会社なのか。なんだこのファーストクラスの搭乗券は。1時間ちょっとのフライトに何故そんな無駄に会社の金を使うのだ!」と発言しており徹底的に無駄を嫌っている。

 

――漫画ドラえもんドラえもん)――― 藤子・F・不二雄

代表作は『オバケのQ太郎』(合作)、『ドラえもん』、『パーマン』(旧作は合作)、『キテレツ大百科』、『SF短編』シリーズである。数多くの作品を発表し、児童漫画の新時代を築き、第一人者となる。独立を発表した1987年までは安孫子 素雄(独立後は藤子不二雄Ⓐ)とともに藤子・F・不二雄として活動した。「F」とは本名の「藤本(フジモト)」の頭文字を意味する。

 

 

 

 

――「耳をすませば」――― 月島靖也 主人公、雫の父親 

耳をすませば』は、柊あおいの漫画作品。『りぼん』(集英社)にて連載された。1995年にスタジオジブリにて、アニメーターの近藤喜文の初監督作品としてアニメーション映画化、キャッチコピーは「好きなひとが、できました。」。また2022年に実写映画化もされた。

 

 

 

 

 

 

ジブリ作品としては「天空の城ラピュタ」は、「スタジオジブリ」というスタジオで制作した初の劇場作品である。1972年に東映アニメーション出身の原徹が設立した「株式会社トップクラフト」を前身に、徳間書店の出資によって子会社として1985年「株式会社スタジオジブリ」が設立された。そのため宮崎監督の1984年の作品「風の谷のナウシカ」は正確にはスタジオジブリ作品ではない。

また「天空の城ラピュタ」は宮崎駿監督が小学校時代に考えていた架空の作品が骨子となっており、原作となる作品が存在しない初のアニメオリジナルの監督作品である。(風の谷のナウシカは、宮崎駿作の原作漫画が存在する。)

ラピュタ」という名称は、風刺作家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭でイングランドアイルランド人のスウィフト(1667-1745)の『ガリヴァー旅行記』に登場する、空を飛ぶ島にある王国「ラピュタ王国」からとったものであるが、物語とはほとんど無関係である。

天空の城ラピュタ」は19世紀後半、産業革命期のヨーロッパを元にした架空世界での冒険を描いている。配給収入は5.83億円で興行収入は約11.6億円であり、興行こそ数字的には振るわなかったものの、配給した東映による観客満足度調査は97.7%と非常に高く、物語は幅広い年齢層に支持され、ビデオソフト化による販売は好調であった。

(―――全国動員 77万4271人となっている。―――)

 

バベルの塔  画像出典元「ウィキペディア」

ラピュタのモデルは16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家ブリューゲルの絵画バベルの塔(とう)で、旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔で、バベルとはアッカド語では「神の門」を表す。一方聖書によるとヘブライ語の「balal(ごちゃ混ぜ、混乱)」から来ているとされる。天にも届くいうなれば神の領域まで手を伸ばそうとした人類が塔を建設し、神に壊され崩れてしまったという神話がある。

「天気の子」について思うところ

私たちの頭上一面に広がる空・・・

晴れの日もあれば雨の日もある・・・

時に恐ろしい嵐を呼び、時に一生忘れることのない美しい景色を見せてくれる空・・・・・・。

まだ我々が知り得ない事が待っているのだろうか・・・・・・。

 

アニメ映画

             「天気の子」   

                               について

 

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
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 「天気の子」の冒頭の場面は病院の一室から始まっている。ベッドで寝ている入院患者の手を取る少女。親族のようだ。その部屋から、光がビルへと差している様子が見える。                 

画像出典元「Miemie Art. ***ココロの景色***」より



なぜか少女は病室から見えた光の指すビルに行く。そして、そのビルの屋上にある鳥居で祈ると、空の上に空間移動した!? 水でできた魚のように動くものが落下しながら、落ちていく少女の周りを飛んでいる…。空の上で人が浮かぶなんて現実ではありえない、とても不思議な光景だ。この不思議さが見る人々を惹きつける。優れた導入と言える。

 

 

新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」に多大な感銘を受けた私は、同監督の作品ということで、次の作品の映画「天気の子」を鑑賞した。「君の名は。」がエンターテインメント性が強いのに対して、「天気の子」はそれよりもより「世界よりも僕と君の方が大切」な『セカイ系』と呼ばれるジャンルの印象を受けた。『セカイ系』の代表作品としては、庵野秀明(あんのひであき)監督の「新世紀エヴァンゲリオン」が挙げられることが多い。新海監督のデビュー作「ほしのこえ」もこのジャンルに属するだろう。「天気の子」は、天気と「セカイ」というテーマが織りなすセンセーショナルな物語と言えると思う。

 

 

晴れと雨

 

単純に言うと天気の良し悪しは、晴れの日と雨や嵐の日の違いと思われる。日照りが続いた後雨を待ち望むこともあるし、嵐によって海の水が拡散されて赤潮等を防ぐ効果もあるようだが・・・・・・。一般に晴れの日が天気の良い日になるだろう。晴れの日に現れる太陽を、日本ではお天道様(おてんとさま)とも言い、「お天道様が見ている」と使われ、人間の悪事に対して他のひと間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く語である。お天道様がそのまま太陽を意味することもあれば、神や仏といったものの象徴として扱われることもある。世界各地で太陽は神として祀(まつ)られ、太陽神の存在はよく知られている。

日本の場合は、天照大神アマテラスオオミカミ)が太陽の神格化とされている。『古事記』や『日本書紀』には、弟であるスサノヲノミコトの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)のために、天照大神が天の岩戸に隠れて世の中が闇に包まれたとある。

「おてんとさま」と呼ばれたのは民間で、てんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てたところから来ているようである。

 

少女、陽菜(ひな)がくぐった鳥居の神社のモデルなのではないかと思われる建物がある。その神社の絵馬が下駄というのも面白い。下駄(靴)を飛ばしてその下駄がどの面で落ちて止まるか、ちゃんと立つか、裏を見せてひっくり返ったり、横向きに倒れたかで明日の天気を占う。昔はそんなのんきな天気予報だったのだ。それは別として、その神社があるのは東京都である。

画像出典元「気象神社」より

東京都杉並区の高円寺氷川神社には境内社気象神社がある。気象神社の、祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)といい、東京大神宮、他で創造の神として祭られている高御産巣神(たかみむすびのかみ)の子で、最も有名な逸話では、岩戸に隠れた天照大神を、集まった八百万(やおよろず)の神に岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている神である。1944年(昭和19年)4月、大日本帝国陸軍の陸軍気象部(杉並区馬橋地区)の構内に造営され、気象観測員が気象予報の的中を祈願したといわれている。

画像出典元「八王子さんぽ」より



高円寺氷川神社

 

 一方、天気が悪い代表の雨についての呼び名、それは日本では一説によると400種以上もあるのだとか。その中でも気になったものを挙げてみようと思う。

霖雨(りんう:何日も降り続く雨。) 涙雨(ほんの少しだけ降る雨。) 滝落とし(「豪雨」の古い言い方。) 村雨(むらさめ;強く降ってすぐ止む雨。) 狐の嫁入り(日が照りながら降る小雨。)  などなんとなく心惹かれる言葉だ。

 

また季節や時期によっても雨の表情の違いを日本人は感じ取っていた。春の雨なら、紅雨(こうう:春、花に降りそそぐ雨。) 桜流し(桜の時期に降る雨。) 夏の雨なら、甘雨(かんう:木々を潤す恵みの雨。) 酒涙雨(さいるいう:七夕に降る雨。) 秋の雨は、白驟雨(はくしゅうう;断続的に降る激しい雨。) 冬の雨は、解霜雨(かいそうう:作物を守るように霜を溶かす雨。) 鬼洗い(大晦日に降る雨。)  など。

このように日本では、表情豊かな表現が多様に拡がっていることがわかる。日本人は、たかが雨とは考えない。雨の降る時期や量にわびさびを持たせている、世界的にも珍しい考え方、鋭い感性をしているのではないか。

 

 

魚と天気の子

 

「天気の子」の冒頭で、天空へ行った陽菜(ひな)の周りに魚の形をした水でできた生物のようなものが出てくる。陽菜の周りを小魚のように群がっているのだ。

空中を魚のような水の生き物が泳いでいる、それは何を意味するのだろう・・・・・・。

小さい頃、父の部屋で「木星には空気のような生き物がいるのではないか」という記事の古いサイエンス誌を読んだことがある。生物はその環境に適応するので地球より気体率の高い木星ではそういう生き物がいるという空想だ。地球は岩石の星なのだが、「水の惑星」とも呼ばれるように、そこには水と大気が多く存在し、それらが生命を支えている。そう考えたとき、水の生き物があってもおかしくないという発想にいたったようにも思える。

画像出典「好奇心俱楽部」より



天空で陽菜(ひな)に群がるように水でできた魚のような物体が浮遊して(泳いで?)いる。地上にも雨として落ちてくる。まるで生き物のようにである。

まるで天空に我々の知り得ない生態系が存在するような描写であるが、地上の生物との関わりはあるのだろうか?

 体が水分なので重さはあるはずだが、それに抵抗しているかのように浮かんでいる。これは地上からの高度が高く、重力が弱い位置で生活しているからではないか?

しかし陽菜も浮かんでいるのは「天気巫女」になったからとしか言い様がない。人知を超えた力、「鳥居をくぐって願ったこと」によってそうなったとしか考えられないのではないか? そしてその願いと代償の呪いが対になっているような演出である。

 カトリック教会の修道女であり、東ヨーロッパで生まれ、ノーベル平和賞も受賞し、インドで国葬されたマザー・テレサは、「私たちのすることは大海の一滴に過ぎないかもしれませんが、その一滴の水が集まって大海となるのです」と自分たちの行動を正しく改めることをこう表現している。まさに慈悲深く、他者に愛情を与え続けていたテレサらしい言葉である。が、「天気の子」での一滴の水の集まりはとんでもないことを引き起こす・・・・・・。マザー・テレサとは逆に一滴の水は災害をもたらすのだ。

 

新海監督の描く空とぶさかなとは一体何なのだろう? 空中を泳ぐ魚? 鯉のぼりもそうではないか。日本では端午の節句に鯉のぼりを立てるが、これは中国の伝説で「大河、黄河の上流に龍門という急流があり、そこを鯉が上ったら龍になる」と言う伝説から来ており、そこから鯉のぼりを立て男の子なのだから勇ましく、大物になれというメッセージになったのではないかと言われている。空中を泳ぐ魚とは未来を輝くものにするという約束事ではないか。それに対して、新海監督の描くものは破滅の未来を予言するものではないか。

 

今CO₂の過剰排出によって地球温暖化と天候異変が世界中で問題となっている。年々より大きな被害をもたらす災害が、人類の危機を感じさせる。それは人類だけではなく生きとし生けるものすべて・・・・・・。

さらにCO₂を吸収する海も、その被害を被っている。海の汚染はマイクロプラスチックだけではなく、メチル水銀放射能など様々な物質によって加速されている。人間の文明によって、初めは少しずつでも次第に大きなうねりとなって汚染されていく・・・・・・全ての自然が・・・・・・。

 

深海監督の描くところは、汚染され海に住むことを諦めた魚が最後にたどり着いたところが空なのかもしれない。(人間の手が届かないところに、天気巫女として陽菜がやってきたので、天は怒り、地上を痛めつけたのかもしれない。まさに天罰ではないか。)

 海で生きていけなくなり空へと逃げ去った魚が、天気巫女として陽菜が天気までも自由に操ることに怒り、陽菜に天罰が降りかかるように仕向けたのではないか。

人知を超えた何かが、これだけ科学が発達した現代でも、いや、科学が発達した現代だからこそ起こっているのである。新海監督はそれに警鐘を鳴らしたのではないだろうか。

これからの人間に与えられる、まるで神からの問いかけに人類はどんな答えを出すのだろう・・・・・・。そんな問いかけなのでは?

 

 

 

自分に出来ること

画像出典元「映画ひとっとび」より



「自分の役割がわかった。ありがとう帆高(ほだか)。」と陽菜(ひな)はビルの屋上の花火の下で帆高に言った。自分の存在意義、すなわち天命とでも呼ぶものだろうか。自分に他人から必要とされるものがあればうれしいものである。その実感が伝わってくる。

自分は何のために生まれてきたのか・・・・・・誰でも一度は考えることではないか。そしてそれを『おとな』になりながら見つけていく。恋人であったり、会社や組織のポジションであったり、家族であったり社会貢献であったり。「いい成績が得られる仕事は自分が一番好きな仕事をしているときだ。」とアメリカの鋼鉄実業家アンドリュー・カーネギーは言った。陽菜も自分の好きな仕事をやれているのだろうか。

誰もが他人から、人間社会から必要とされることを願っているのだと思う。

画像出典元「アニメイトタイムズ

帆高や陽菜のやっていることは、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)が横行する今の世の中でも、ひたむきに進んでいけば報われることもある・・・・・・その代償もあるという監督からのメッセージに思えてしまう。

 

 

沈みそうな国

 

イタリアの水上都市ベネチアでは、「アクア・アルタ」という高潮の季節が11月上旬にやってくる。2019年には「アクア・アルタ」でサンマルコ広場を含むベネチア市の約75%が水に浸かるという異常事態が起こった。例年では約10%だった事なのでどれだけ異常事態なのかがわかるだろう。最高水位は1m87cmに達した。過去最も水位が高かったのは、1966年の1m94cmで観測史上2番目の記録である。

 

また、海面の上昇により被害を受けている国は他にもオセアニアミクロネシアポリネシア地域の南国の島国、モルディブ諸島、ツバル、キリバスマーシャル諸島などである。これらの国々は環礁等という珊瑚でできた島が多く、海抜が1~2mの低い地域も広く分布する。

海水によって人間の住みかが奪われるだけではなく、「塩害」という海水によって農地に海水の塩が入って作物が育たなくなると言う被害もある。

これらは先進国のCO2の排出による被害だと言われている。温暖化による海面上昇の被害なのだと。

我々の何気ない日常が、人々の安心を奪っているのかもしれないのだ!

スウェーデン王立科学アカデミーは2021年のノーベル物理学賞を日本出身で米国籍の真鍋淑郎・米プリンストン大学上席研究員(90)らに授与すると発表した。物理法則をもとに、大気中の二酸化炭素(CO2)濃度が気候に与える影響を明らかにしたというのだ。温暖化の原因を科学的に示した真鍋氏らの研究は、現在の脱炭素をめぐる議論の発端となった。

 

不器用なりの名言

 

物語の終盤で、離島からの家出少年である帆高(ほだか)を助け、かくまい仕事を教えた須賀(すが)が、「まあ気にすんなよ青年。世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから」と帆高に向かってぶっきらぼうに言う。須賀なりの不器用な慰めだが、それでもなんだか納得するから不思議である。何か変だなぁと思うことが世の中には沢山ある。正義だとか正しいことだとか、正直だとか真面目だとか、報われないことの何と多いことか。世の中が狂っているという考え方が納得できることが本当に沢山ある。言葉は語句を多く尽くせばいいかというとそうではない。舌足らずの方がより心に沁(し)みることがある。不器用でも一生懸命生きているだけで素敵に思えることがある。不器用を大切にしたからこそ成功をおさめた人の言葉を何人か挙げてみようと思う。

 

 

――下手の方がいいんだ。笑い出すほど不器用だったら、それはかえって楽しいじゃないか――岡本太郎(芸術家)

 

岡本太郎大阪万博の、太陽の塔をデザインし、「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃から仏の社会学者・文化人類学者マルセル・モースの下で絵とは関係のない民俗学を学んだといわれている。パブロ・ピカソの作品を見て強い衝撃を受け、「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言し、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。「芸術は爆発だ」という言葉も有名だ。

画像出典元「毎日新聞」より

太陽の塔画像と岡本太郎

 

 

――自分、不器用ですから――高倉健(俳優) 

 

また、高倉は「いい風に吹かれたいですよ。きつい風にばかり吹かれていると、人に優しくなれないんです。」とも言っている。俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったらしいが、採用から1か月半で主役デビューが決定、その際に「高倉健」と芸名をつけられる。1977年には『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、第一回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。『鉄道員』(ぽっぽや)では、第23回日本アカデミー賞(2000年)の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。

 

 

――失敗の原因を素直に認識し「これは非常にいい体験になった」というところまで、心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。――松下幸之助パナソニック創業者)

 

世界的企業、パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げたのが、松下幸之助だ。松下は父の事業の失敗で9歳ながら丁稚奉公(でっちぼうこう)をするはめになり、次の奉公先である五大自転車での丁稚奉公で後の飲料メーカー「サントリー」創設者の鳥井信次郎と出会い影響を受ける。これからは電気の時代だと確信し、「大阪電灯株式会社」に入り、後に退社し電気ソケットの会社を設立。この頃に肺結核の一種を患うも、病を克服、それが自信につながったと言われている。一代で世界的企業を立ち上げた陰にはこんな苦労があったのだ。

 

自分の人生を成功へと導く者は苦難を苦難と思わず、前へ前へと進んでいく。自分の描く未来像をしっかり見据え、それに向かって進むのだ。そして苦しいときは色々な成長を自分に課すのだ。思いやり、優しさ、人との接し方、色々な人の考え方。

人類も楽に生き残ったのではない。

 

 

スノーボールアース」と人類

 

 地球の歴史では、地球自体が全部南極のように凍りづけになるという「スノーボールアース」という現象が数億年ごとに複数回起きており、そのたびになんと9割近い生物が絶滅してしまうのだ・・・・・・。なんとも恐ろしい現象であるが、この先の未来でも十分に起こりえる現象なのだ。我々の子孫がその危機を乗り越えられるか、科学はそこまで進歩しているだろうか・・・・・・。この映画を観て、そんなことを考えてしまった。

 

類人猿は基本、木の上で生活しているが人類(その中でも特にホモ・サピエンス)は弱かったがために森を追われ草原に出てきて、天敵を見つけるために二足歩行になり、手が自由になり色々なことを出来るようになり、さらに弱かったがために団結して敵を倒したり狩猟をしたりしてこれまで生き延びてきたのだ。人類は弱い種族であったがために知恵を使い、団結して生きてきたのだ! 現人類である「ホモ・サピエンス」は類人猿や人類(ホモ属)で一番弱い種族だからこそ生き延びたのだ。

『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るものは変化する者である』とは、『種の起源』で「進化論」を発表したイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンの言葉である。最初、ダーウィンが人間は猿の仲間から進化したと言うと世間からは馬鹿にされ、今でもあまり信じられていない国もある。しかし科学が発達するに従い支持されてきた。生命の歴史の普遍的なものが語られているように思う。

強い者が生き残るわけではないのだ! 生命の危機を何度も乗り越えたわずかな『生きもの』がやっとのことで命をつないできたのだ。

科学という知識によってこれから訪れるだろう「スノーボールアース」に立ち向かうことができるのか……人類、生命へ神から突き出された試練は大きい。

画像出典元「エンタミート」より

これから起こりえるだろう自然現象により変わり果ててしまう地球。その中でどう生きていくか。人類に出された問いは重く、答えは見えてこない。しかし、生き延びるため、全力を尽くすことが生き物の定めなのだと思う。帆高と陽菜の見つけた答えもそれなのだ。こんな狂った世界で大切な宝物を見つけた二人ならこの先、何があっても大丈夫だろう。きっとそうだ。世界のために生きるのではなく、二人のために。利己的でない二人が、懸命に命をつなごうとするなら、これが生き物の定めなのだ。たとえ全凍結しようと、生きようとすること、その時起きた自然に反しようが、生きようとすること、それが生を授かったものの定めなのだ、そう言っているような気がする。

「君の名は。」について思うところ 2

本当にこんなことが起こったとしたら、自分ならばどうするだろう・・・・・・。

「あの人と入れ替われば人生楽しいんだろうなあ」と思った事があるかもしれない。

君の名は。』この物語はそんな主人公たちの、外見ではなく心、

中身の入れ替わりが象徴的である。

 

入れ替わりによる出逢い

君の名は。」より私が撮影

 

アニメ「君の名は」は入れ替わりにより、二人が出会っていくというストーリーから始まっている。瀧(たき)が三葉(みつは)の身体で自覚めたとき、何か胸に違和感を感じる。それは、おっぱいがあるから。ん? なぜ? と瀧は不思議がるが、これは何という衝撃だろう。古今東西、男というものは女というものに憧れを抱いて生きている。その憧れの身体の中で目覚めたのだから。だが、瀧はその至福の時を味わうことなく、なんだこれと状況が理解できないでいるようだ。その混乱の最中、妹が起しに来る「姉ちゃんなんで胸さわっとるん? ごはん!」と。いやらしさを感じる間もなく、ここに何かおかしみが生まれている、コミカルなシーンだ。

三葉に入れ替わった瀧

 そして次の場面では、三葉は、瀧の身体で目覚めるのではなく、三葉白身の身体で目覚める。妹の「今日はまともやね」という言葉から、前日の行動の異常さが浮かび上がる。どんな行動をとったのか、それは前段であった行動、つまりおっぱいをさわったのである。瀧が三葉の身体に入れ替わった時、反対に三葉が瀧の身体に入れ替わった時の行動を描かずにいることが、かえって深く興味を抱かせる。

次の日三葉が登校すると、勅使河原克彦(テッシー)と名取早耶香(さやち)から「今日はまともやね」「ありやキツネツキだわ」と言われ、さらに前日の学校での行動の異様さが強調される。まともじゃないこととは、一体どんなことがあったのか。そんなことが想像されてますます興味がわいてくる。

君の名は。」より私が撮影

 

 

学校での国語の授業。そこでは、「誰そ彼、彼誰そ、彼は誰」とカワタレ時の学習をしいるが、もしかして、それは語順をかえることで出来る「カタワレ時」という「入れ替わりの半分」のことを意味しているのかも知れない。

君の名は。」より私が撮影

ついで、三葉が先生にあてられる場面がある。先生は「今日は自分の名前忘れてないね」と言い、みんな笑い。三葉は何も分からず首をかしげる。前日には自分の名前を忘れていた。つまり、自分が誰だか分からなかったということが分かる。前日の様子がありありと想像される。

そして三葉のノートに「お前は誰だ?」と身に覚えのないメモがある。これにより、誰かとの入れ替わりがはっきりと認識される。

君の名は。」より私が撮影、瀧の姿の三葉

今度は、三葉が瀧の体で目覚める。下半身に違和感「なんや・・・ある・・・」触ってみる「ひゃあ!?」感触が!これは驚くだろう。また、左頬にガーゼが。触って「痛い!」前日に何があったのか。

「トイレ行きたい…」まだ見たことなかったのに・・・仮にも巫女なのに・・・顔赤らめため息つきながらトイレから出て玄関のドアを開ける。このシーンに純情な乙女の困惑が爽やかに描かれていて好感がもてる。

 

君の名は。」より私が撮影、三葉の姿をした瀧

 

瀧は、三葉の身体で目覚め、ニヤリとし胸に触れる。一方三葉は、瀧の身体で目覚め、また下半身に違和感を覚え、なんなのよこれ!・・・と。男女の差異なのか分からないが、登場人物の心情に共感できる。

君の名は。」より私が撮影、瀧の姿をした三葉

  

入れ替わりの設定について 

 

古典の「とりかえばや物語」は入れ替わりの代名詞的作品だが、男女が立場を入れ替えて育てられるだけで中身が入れ替わっているわけではない。今回、新海誠監督は最初の企画案から<とりかえばや>という言葉を使っていた。男女がスイッチする物語を作るに当たり色々な本や映画を参考にしたそうだ。そこで監督が思ったのは「ジェンダーの差異の話にはしない」ということ。

 

「今は男らしい女の子も女らしい男の子も普通なので、とりかえばやをジェンダーの差異の面白さで見せることが成り立ちにくいと思うんですよね。その中で「ぼくは麻理のなか」(押見修造)は女子高生になってしまったさえない大学生が彼女を取り巻く環境をのぞき見る話になっていて、その面白さの方が共感性があるなと思ったんです。むしろ「らんま1/2」(高橋留美子)のような、ひとりの人が別の人間になるスイッチの面白さや、お互いの見ている風景を感じて、そこでお互いを知るというところがポイントになればいいなと思いました」

(新海誠インタビューより)

 

 

参考図書

 加えて参考にしたのはグレッグ・イーガンの「貸金庫」という短編。朝起きるたびに違う人間になっているという物語で、韓国映画の「ビューティーインサイド」にも共通するものがあると思って観に行ったそうだ。読者の皆さまにもぜひさまざまな<入れ替わり>を楽しんでみてほしい。

 

 

 

ドラえもんと入れ替わり

 

国民的アニメ「ドラえもん」の3D映画「スタンド・バイ・ミー ドラえもん2」では、未来ののび太と現在ののび太の中身の入れ替わりがある。自然概念がどうのではなく、コミカルで面白い発想だ。

 

 

そして大人ののび太が子供の体に戻って、少年期時代のジャイアンスネ夫、しずかと遊び、野球をしたりと数十年ぶりに子供の頃の体験をして大人ののび太は感動の連続なのだ。視聴した子供たちはドラえもんとしてみられるし、アラサーの私にとっては懐かしさと「そんなことしてみたいなあ、歳をとったなあ・・・・・・あいつら元気かなあ・・・・・・泣けてくるなあ」と子供と大人で別々に感動できる二重構造になっているのだ。

誰でもが大人になれば仕事もしなければならず、あるいは子育てだとか、同僚との付き合いだとかで子供の頃からの友人に会えなくなる事が多いのではないだろうか。忙しくて自由がきかないと。そんなとき、ふと「ドラえもんがいてくれたらなあ」と我々世代は思うのではあるまいか。

タイムマシンに、タイムふろしき、タイムテレビ、など時間を操る道具が多数登場する。

ドラえもん」の生みの親、『藤子・F・不二雄先生』の発想は奇想天外だけではなく人の思いに寄り添っていて実に素晴らしい。「ドラえもん」は一番優しくてわかりやすいSF漫画であろう。

 

 

ドラえもん」や映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような『タイムマシン』は、まさに人類の夢なのではないか。「あのときああすれば・・・」「なんであんなことを・・・」と時には取り返しのつかない失敗も戻せるかもしれない・・・そんなことを修正できるのならば必ず修正したいと誰にでも後悔はつきもの、それが人生である。しかしもし、それを直せたのなら。

タイムマシンの原案は、正確には1887年、スペインの作家エンリケガスパール・イ・リンパウの『アナクロノペテー(時間遡行者/時間遡行機械(そこうきかい))』で登場したのが初まりであるが、有名にならず、時間を遡(さかのぼ)るだけであり、「未来へいく」という概念は存在しなかった。

時間移動を最初に描いたのは、「トム・ソーヤの冒険シリーズ」のアメリカの作家マーク・トゥエインの1889年の『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』だが、マシンは登場しない。この作品でも「過去へ行ったり、小説内での当時の現在に戻る」ということはあっても、「未来に行く」という概念は存在しない。

今の「タイムマシンもの」に影響を与えたのは、イギリスのSF小説H・G・ウェルズの『タイム・マシン(1895年)』で過去にも未来にも行くといった「タイムトラベル」を行うことが可能で、「ドラえもん」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などもこの小説に登場するタイムマシンを元としたものが創られている。

画像出典元「ウィキペディア」より

ハーバート・ジョージ・ウェルズ

 

 

タイムトラベルの歌

サディスティックミカバンド「タイムマシンにおねがい」


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原田知世時をかける少女


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時間について

 

 時間とは何だろう。0次元の点が動くと1次元の線となり1次元の線が動くと2次元の平面となり、その2次元の平面が動くと3次元の立体となり3次元の立体が動くと4次元の時間となると聞いたことがある。だがこれはずっとつながった時間の流れを意味する。ところが、時間分岐(じかんぶんき)というものがある。それは時間が枝のように分岐するという時間観、分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているが、その世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であるという。量子力学の問題解決のための仮説である多世界解釈も時間分岐の考えを使っている。この仮説もいつか真実となって証明されるかもしれない。

 時間進行の操作というものがある。それはつまり時間の進行を速くしたり、遅くしたり停止したりする。日本の昔話「浦島太郎」で、亀を助けた浦島太郎がお礼に海の底の竜宮城へ招待されるが帰りに乙姫から、絶対に開けてはならないと玉手箱を渡され、この時点ですでに竜宮城に行った時間より周囲の時間は進んでいたのだが、結局玉手箱を開けてしまい、中から煙が出てきてお爺さんになってしまう話や、米国の最初期の小説の一つである「リップ・ヴァン・ウィンクル(1816年)」という、ワシントン・アーヴィングの小説で、ウィンクルがオランダ人の酒宴に参加し眠ってしまい気がついたら20年も経っていた、という話がそれである。それは、タイムトラベル、つまり 時間を移動し、過去や未来に行くことにとても近い。H・G・ウェルズの「タイム・マシン」がそれをはっきりと示している。だが、ホーキング博士(1942-2018)は「タイムマシンは不可能である」と述べた。「過去に行く時間的閉曲線が存在するには場のエネルギーが無限大でなくてはならない」と述べた。過去に行くことはかなり難しいということだと思う。

 

タイムパラドックス

 

 「タイムパラドックス」とはタイムトラベルに伴う矛盾や変化のことで、具体的にはタイムトラベルした過去で現代(相対的未来)に存在する事象を改変した場合、その事象における過去と現代の存在や状況、因果関係の不一致という逆説が生じることに着目したものである。もっと分かりやすく言うと、タイムトラベルした過去で何かやらかしたことで未来が変わってしまう、それが大きな矛盾を生んでしまうということである。

 

 たとえば、『親殺しのパラドックス』。自分の誕生前の両親を殺すとどうなるか、

1どう画策しても殺すことが出来ない(矛盾生じない)

2両親は自分を生む前に死亡するので自分も消滅する。そうすると自分が過去へ遡ることが出来なくなり両親が死ぬこともなくなる。矛盾(パラドックス)である

3両親が死んで自分が生まれない世界が自分が生まれてやってきた未来世界から分岐する(パラレルワールド)。両親が無事だった過去(そもそも時間移動すらしなかった世界)     には何の影響もないので矛盾ではない

 

また、量子力学の世界では時間の概念が一般とは異なっており時間が逆方向にも流れるとされている。それなら過去にもいけるのかな。

 

他にも、同じ時間軸の時間が繰り返される「タイムリープ」ものが存在する。(「涼宮ハルヒの憂鬱」「うる星やつら ビューティフルドリーマー」など)

 

 

 

 今では、タイムトラベル活劇がたくさん生まれている。

1.SFで言うIF世界(仮定世界)歴史が変わったら存在するかもしれない世界

「モンゴルの残光」豊田有恒、『スーパー太平記手塚治虫、「ターミネータージェームズ・キャメロンなどがある。

 

 

2.過去に飛ばされた現代人未来から現代に飛ばされた未来人が高度な知識で救民、社会変革を目指す「闇よ落ちるなかれ」Lスプレイグ・ディ‐キャンプ 「JIN仁」村上もとかなどがある。

 

 

3.歴史上の謎をタイムトラベルで解明したものに、「さよならダイノサウルス」ロバートJソウヤーがある。

 

4.主人公たちがタイムスリップすることで史実が再現されるものもある。

戦国自衛隊」がそうである。

 

 

 

 

 

「孤独」と「君の名は。

 

話は変わるが、「ドラえもん」の話に「どくさいスイッチ」という話がある。そのスイッチを使うと、自分が邪魔だなと思う人間の存在を消すことができるのだが、のび太ジャイアンを消し、スネ夫を消し、気に障った人間ならば誰でも消してゆき、しまいにはドラえもんまで消して世界中の人間も消してしまう・・・・・・。孤独になったのび太は、そこで初めて「孤独」というものの恐ろしさを真に受けるのだ。

1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初の登頂を果たし、世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げ、さらに犬ぞり単独行で初めて北極点に到達し国民栄誉賞も受賞した冒険家、植村直己(1941-1984)は、基本単独で冒険するのだが、一番恐ろしいのは「孤独」だと話したそうだ。「失敗したら脱げ道がないと思った。人間社会をさまようよりは大自然の中にしか生きる道はない。弱音を吐きたがる自分に打ち克つしかない。ただひたすら前へ進むこと。」だと。強い精神力を要する事を成し遂げた人でも、「孤独」というものは恐ろしいもののようだ。

 

 

 

君の名は。」で、いつも目覚めると大切なものを失ってしまったような感覚で涙がほろりと泣きながら目覚めていた瀧と三葉も、心にぽっかり穴の開いた「孤独」に近い感覚を持っているのではないであろうか? そこに他の「青春学園もの」と「君の名は。」との大きな違いがあるのではあるまいか。そのために世界的なヒットにつながったのではないか。誰にだって「孤独」というものが心の底から顔を出すことがある。そこに共感するのは世界共通のように感じる。庵野秀明監督のアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の登場人物渚カヲルは、「人は孤独を忘れる事で生きていられる」と言っている。確かに「孤独」は恐ろしいもので、コロナ禍での人と距離を置かなくてはならない状況で、修学旅行も行けなかった生徒さんが日本中にいた時代だ。

しかし、それでも互いのことを瀧と三葉は諦めなかったのではないか。古い歌だが「東京砂漠」と言う歌が唄っているように、人は多くいるのに、皆他人に無関心なのが東京の特徴の一つと今でもよく言われる。「孤独は山になく、街にある。大勢の人間の間にある」とは哲学者、三木清の言葉だ。が、夢を見て上京してくる若者も後を絶たない、「孤独」と「夢」がコインの裏表のように存在するのが大都会東京なのだろう。


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最後に。

綾小路きみまろさんのネタから一つ。「独身の人は結婚したいんです。結婚した人はひとりになりたいんです!」

 

 

「君の名は。」について思うところ

あなたは恋をした事がありますか? 特別な、大事な人はいますか? その人はすぐ

に会える距離にいますか? それは現実ですか? 

もしもすべてが夢だとしたら……。

 

 

君の名は。

 

画像出典元「KADOKAWA」より

 

 

君の名は。」:新海誠監督作品の2016年公開のアニメーション映画。東京に暮らす少年・瀧(たき)と飛騨地方の山深い田舎町で暮らす少女・三葉(みつは)の身に起きた「入れ替わり」という謎の現象と、1200年ぶりに地球に接近するという「ティアマト彗星」をめぐる出来事を描いている。

 

君の名は。」と私の出会い

 

まず私が高校生の頃位か、当時話題になっていたアニメ映画、細田守監督「時をかける少女」がテレビでやっていたのでワンシーンだけ見たのだが、それを観たとたん、眩しい青春描写に私はムカムカしてすぐにテレビを消した。何故ムカムカしたかと言うと、私にしてみれば、そんな綺麗ごとの青春なんてうそっぱちに見えたからだと思う。なんとみじめな青春を過ごしていたかと自覚していた。本当にもったいない! それ以降細田守監督作品は「おおかみこどもの雨と雪」、「サマーウォーズ」などは一切観ないことにしたのだ……当時は浅はかな決断とはまったく思わなかったのだ。しかしアカデミー賞にノミネートされた「未来のミライ」はちゃっかり視聴しているのだしかも多大な感動を受けて。……(笑)

君の名は。」も「時をかける少女」と同様に青春真っ盛りな高校生が主人公の映画であることから観る前から毛嫌いして観ようともしなかった。そんな私がなぜ見ようと思ったのかというと、中学生時代に友人の紹介で新海誠監督の「ほしのこえ」を観ていてそれは何となく好きだったのと、「君の名は。」の異常な観客動員数である。日本でも記録的な動員数だが当時、中国での海外映画収益で歴代1位を取っていたのだ。私は名誉と記録に弱いみたいだ(笑)。

正直、劇場で観たわけではなく、実家のHDの録画で観たのだが、アラサーにもかかわらず、ラストに号泣したのが「君の名は。」との出会いであった。

 

イジメと音楽

 

物語序盤、学校に登校している三葉が、クラスの一部の連中に聞こえる様に陰口をたたかれるという意地悪をされている描写があるが、音楽のブルースもアメリカで差別されていた黒人によって生み出された、軋轢(あつれき)からの解放を求めて作られた自由を求めた音楽であり、そこから派生してジャズやR&B、ロックンロールが生まれている。黒人差別もひどいものだったが、日本でも陰湿ないじめによる被害は学校でも職場でも後を絶たないが、こうした背景から生まれたのがブルースやロックなのだ。人間が自由を求めて生み出したものなのだ。だから聴いていて勇気づけられるのだ!

 

 筆者の好きなロックの曲は、ビートルズの「ヘルプ!」で、それが音楽への目覚めのきっかけだった。12歳頃であったか。当然ビートルズ世代ではないが、父のカセットで聴いていたり、某テレビ番組のオープニング曲でもあり、イントロなしでいきなり「ヘルプ!」と歌が入ってくるが印象に残った。歳を取るにつれて歌詞もいいことに気がついたりと、人生を左右した大切な一曲だ。


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 アメリカのロックバンド、グリーンデイの「Boulevard of Broken Dream(ブールヴァ―ド・オブ・ブロークン・ドリームス)」という孤独を歌った曲があるのだが、大学1年の春休みに帰省いた時、ちょうど母が病気だったことを私に隠していて、ウィッグが取れて髪の毛が抜けてしまった母を見て大きなショックをけた。この曲を聴いていた大学時代、熱があっても肉体労働のバイトをしたり、単位取りに必死になって「孤独でも自分は頑張ってるんだ」と言い聞かせて学生生活前半を送っていたのだが、結局体を壊してしまう。なんとか体を壊して大学を卒業して、その後アルバイトばかりしている時にもこの曲が自分を鼓舞し、自分を支えてくれた。まさに名曲だと思う。


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入れ替わり

 

替わりによって出会った瀧と三葉。瀧は三葉の体に興味津々で(笑)、三葉は戸惑っている。ある意味ではトランスジェンダーのようにも思える。近年ではダイバーシティという言葉がある通り、そういう体と性の不一致のマイノリティーの人々でも安心して暮らせるという社会を世界中で目指している。

入れ替わりで、互いの周囲の人々との関係も徐々に変わっていく。

 

男女で反対の性別で育てられる「とりかえばや物語」と小野小町の「夢と知りせば覚めざらましを(夢と知っていれば目を覚まさなかったのに)」という『古今和歌集』の歌が物語のモチーフになっていると新海監督は発言している。「入れ替わりと夢」というのが「君の名は。」のポイントだ。じつはタイルも、「君の名は。」ではなく「夢と知りせば」、「かたわれ時の恋」にしようかと考えていたこともあったという。高橋留美子先生の「らんま1/2」の影響も受けているとか。確かに男女の入れ替わりという点で影響を受けている。 

それにしても「とりかえばや物語」は、現代のアニメや漫画、ライトノベルの題材にも通じる……考えた人は不明だが、千年先を見据えた天才だったのではないか!

 

「ムスビ」の考察への出発点

 

 「君の名は。」の瀧の心が宿った三葉が、三葉の妹とおばあちゃんとご神体の処へ行く道中、休憩に「おむすび」を食べるシーンがあり、そこでおばあちゃんがムスビについて説明する。おばあちゃんは「糸を繋(つな)げることもムスビ、人を繋(つな)げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神さまの力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕わしとる。よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ。」と言ったシーンがある。「ムスビ」とは何なのか。解き明かしてみたい。

 

ムスビと産霊(むすび)と結び

 

今現代でも手で結ばれた飯を「おむすび」というが、食べやすい形にしただけでなく、もっと神秘的な郷愁(きょうしゅう)を感じさせる食べ物だと思う。シンプルに米を握り固め、さまざまな具を入れ、もち運びにも便利だ。『結ぶ』という言葉は、奈良時代には「むすひ」と発音され、「むす」は『産』、『生』という意味を持ち、「ひ」は霊力を表す言葉であったらしい。つまり、「むすび」とは、何かを生み出す人知を超えたものだったと思われる。

「むすぶ」という言葉には「契り」や「結実」、「完結」などの言葉になって完全なもの、揺るぎないもと言った意味で今も我々の暮らしの中に根付いている。男と女の「結び」は完全でないものが一体になることで完成され、実を「結ぶ」とは、ことの完結を祝う時の言葉だという。

 今も我々の暮らしの中で祈りの心を表す時に、物と物を結び合わせる習慣が残っている。 <水引>や<しめ縄>がまさにそうであり、結婚など人と人との縁や、おみくじなどを枝に結ぶのも日本人の原像が残っているからかもしれない。

画像出典元「@DIME」より

 

「ひ」は霊力を表す言葉であったらしいと先ほど述べたが、「ひ」という音には実に不思議なチカラが宿っているという。男女の仲を結ぶ、「結び」という言葉の中にもスピリチュアルな雰囲気漂う「霊(ひ)」の音が隠されている。結びの語源は、「生す(むす)」「霊(ひ)」にある。

その「生す霊」は「産す霊」であり、「産霊」は古来から神道においても大事な観念として語り継がれている。「ムス(産)」には“生み出す”、「ヒ(霊)」には“神霊の神秘的な働き”という意味のがあり、ムスヒ(産霊)とは、「結びつくことによって神霊の力が生み出される」ことと解釈されている。

「むす」は、「苔生す(こけむす)」や「料理を蒸す」などの「むす」を意味しており、温暖多湿の気候風土の中から生命が生まれてくる過程を表している。アニメでは周囲を水で守られたほこらへと進んでいくが、この水も命を生み出す大切な要素だと思われる。

 湿っぽい環境の中から生命が誕生するのである。宮崎駿監督作映画「もののけ姫」にも登場する鬱蒼(うっそう)とした森とその中に存在する池が連想される。もう一度言うが、天地・万物を産みなす神霊、むすびの神のことを産霊(むすひ)と言う。天照大神と共に、高天原の至上神とされる高皇産霊神(たかみむすひのかみ)や神皇産霊神(かみむすひのかみ)の名前にも「むすひ」という言葉が見られる。日本最古の歴史書である古事記には、“天地が形成された始まりの時に、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみムスヒのかみ)、神産巣日神(かむムスヒのかみ)という三柱の神が現れた”と記されている。
 この中の2柱の神名にも「ムスヒ」が見えることなどからも、「天地万物を生成する霊妙な力をもつ神霊」とも定義されている。いかに「産霊」が大事にされてきた観念であることがうかがえる。

 また、霊力によって命を宿し産まれるものを息子、娘と呼ぶが、息子という言葉のルーツは「産す子(むすこ)」であり、娘のルーツは「産す女(むすめ)」である。

古来、「願いを込めて結ぶことは、人の想いまでをも留まらせることが出来る」と考えられていた。瀧と三葉の互いを想う心の深さは「願いを込めて結ばれた」何かがあったからなのだろう。

神社でも「しめ縄」という形で幾重にも結ばれた縄で結界を張っているし、願いを込めておみくじを木の枝などに「結ぶ」行為が今日でもなされている。

 

水引

 

水引も紅白の紐を「結ぶ」ことにより、<人と人を結びつける>という意味が込められ、結婚式やお祝い事などめでたい場で使われることになったのだろう。また、白と黒の紐を使う場合は凶事に使い、悪縁を断ち切るため、結びながら切ることを強調していると思われる。

 

 

画像出典元「ギフトマナー事典」より

図1水引

 

先程今の人もおみくじを引いた後に木の枝に結んだりすることを述べたが、昔の人も今のおみくじに似た習慣を持っていたようである。万葉集に、「磐代(いはしろ)の野中に立てる結び松」という歌が出てくるが、その歌がそのことを表している。誓いをかけたり契りを結んだ印として松の小枝に結んでいたようである。

画像出典元「たーぶらんの戯言」より

図2.大阪御霊神社の茅の輪。

君の名は。」に出てくる瀧は立花姓で、三葉は宮水姓であるが、この立花姓と宮水性は兵庫県に多い。また、日本三大名酒の里がある灘は兵庫県で、その灘の日本酒に使われる水を「宮水」と呼んでいることから、三葉の祖先はこの宮水家とつながっていても何ら不思議はないと思われる。その証拠が作中にある「口嚙み酒」という酒との縁ではないかと思う。

 

 

画像出典元「浅草 桐生堂」より

 

 映画「君の名は。」では組紐をくみ上げる場面が登場するが、シンガーソングライターの中島みゆきさんの「糸」という曲は、人と人との縁のつながりをたての糸と横の糸が織りなして布が出来るようだとして表現しているが、組紐をなんとなく想像させる。縁というものを糸が絡まり美しいものを創り上げていることに例えているのではないかと思う。現実では糸が絡まるとやっかいなことになっていやがることも多いのだが、この組紐では糸と糸との絡み合いこそが美しいのだと表現されている。もしかして、人と人との縁とは、たとえ結びが合わなくても絡み合うことでも美しいことなのではないか。そんなことを感じさせる。ひとつひとつ組み上げられている縁は、必ずしも結ばれなくてもどれほど素敵で輝かしいことか。そんなことを想像し、人と人とが縁をつなぐこと、そのことを心から願った。

新嘗祭(にいなめさい)と「結び」

 

新嘗祭は、その年の収穫に感謝して初穂を備えて神々をもてなし、共に食すことで契りを深め神様の御力を頂く、宮中でも大事にされている儀式だ。また、新嘗祭はその年の勤労で結んだ成果を国民一体となり神様に捧げ、そのご縁を深く「むすぶ」儀式でもある。

 

万物に神が宿ると考えられていた古来の日本では、物の結び目までも神の心が宿っていると考えられていた。身の周りの「あらゆる『ムスビ』に感謝して生きる」ということには、先人たちの<万物との調和を尊ぶ心>が現代でも息づいていることがわかる。

 

ロープの結び目

 

ロープもその「結び」の一種で、力強く絡み合い人間を何世紀にもわたって助けてきた存在だ。その結び方にも人の願う心が見えるような気がする。

そこで結び方の例をいくつかとり上げてみたいと思う。

「ロープの結び」には、ロープの端っこを結ぶもの、そして中ほどを結ぶもの、さらに二本のロープ端っこを結ぶものなどがある。

まず、ロープの端っこを結ぶものとして、「ひと結び」を紹介したい。「ひと結び

画像出典元「ひと結び - Wikipedia」より

これは芯に結びつける結び方の中で最も単純なもの。

 

止め結び」 (1端)

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)

ロープに輪をつくり、そこの中にロープの片端を通すことによってつくる。最も単純なストッパー・ノットである。

これを0端(端っこのない結び方)と言ったりもする。

次に紐の中ほどに輪を作る結び目。

この例としては「よろい結び」がある。

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)

これは、ロープの中ほどに輪をつくる結び方で両端を使わずに結ぶことができる。ロープ本線を強く引くと輪が小さくなってしまいやすく、それほど強固ではない。左右非対称のため、引く方向を考慮して結ぶのが望ましい。

 

最後に2端(紐の2端で作る結び目)、つまり

紐の2端で作る結び目には、次のようなものが挙げられる。「本結び」「蝶結び」

本結び

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)」より

 

蝶結び

画像出典元「ウィキペディア(Wikipedia)」より

端と端を結ぶ方法。一度2つの端を絡めたあと、左右に広がるような形に2つのループを形成させて再度結ぶが羽根を広げたような形に見えることからこう呼ばれる。装飾性が高く、非常にほどくことが容易であるため、靴紐を縛る時やリボン髪を結う時などに使われる。

ところで、先ほど結び方の中で「止め結び」というのを紹介したが、この中に「三葉結び目」と呼ばれるものがあるという。最も単純だが、かたく結ぶ結び方のようで、結び目理論では「三葉結び」目と呼ばれる。

三葉が、瀧との別れを止めて、結ばれようとしていくまさに最後の場面が、その結び目ではないか。そんなことを考えた。

 

生きにくい時代だからこそ

 

『心の中で「自分ダケ」という毒キノコを育てていませんか?』という言葉がある。これは薬師寺の大谷徹奘(てつじょう)和尚の著書「みんな迷いがあるんです」での言葉だが、近年、確かに「死刑になりたいから」とか「死にたかった」だとか自分も周りも見えずに凶悪犯罪に手を染めてしまう人が増えているように思う。確かに景気も良くないし、SNSによって人間関係はより気薄になってきているのにもかかわらず複雑化して自分と相手との関係性もよくわからなくなってきている。そんな有様だが、「自分だけ辛い」と考えてしまうことは自暴自棄に陥り、自分自身を大事にできないことはおろか他人の命までも軽く見るようになってしまう……そう考えることは、心に良くないのではないか。「下を向いていたら、虹は見つけられないよ」とは、「街の灯」「モダンタイムズ」「ライムライト」などの作品で知られる喜劇王チャップリンの言葉だが、彼も幼少期より苦難の多い人生を送ったが、上を見続けたから今日の偉業と評価があるのだ。

宇宙戦争」「透明人間」「タイムマシン」などの作品を残したSF小説の父と言われるH・G・ウェルズは「昨日倒れたのなら、今日立ち上がればいい」という言葉を残している。人生にはいい時も悪い時もある。しかし上を見ていなければ良いことに気が付かない場合もある。失敗しても次に生かせればいい。何も自分を追い込むことはない。

 確かに人生は残酷で失望ばかりさせられることが多い。しかし、一方で瀧や三葉のように人生を切り拓いて起こせる出会いや奇跡もあるのではないか。一寸先は闇ではあるが。

コロナ禍で、SNSによる中傷で、生きにくいかもしれない時代になってしまったようだが、どこかに必ず希望がある。悲観するのはまだ早い。新海誠監督、瀧と三葉はそのことをスクリーン越しに私たちに伝えているのだと思う。

 

先ほどの徹奘(てつじょう)和尚は、「縁は生き物である」とも説いている。鉢植えをプレゼントされた和尚は、水をやったり日に当てたりして世話をしたらつぼみが膨らみ、花が咲いたのを見て、「もらった苗木を枯らさずに、花を咲かせるためには、「育てる」という行為が不可欠で、世話をして時折『がんばれ』と声をかけてやる。そうしていくうちにやがて花が咲き、実を結ぶ。縁もこれと同じで自分が面倒がれば、そこで枯れてしまう。だから「縁は生き物」なのだ」と。

瀧と三葉は縁を結べているのだろう。二人は互いに出会うことを求めていたのだから。そこからどうなるかは彼ら次第である。

「何もかも失っても、未来だけはまだ残っている」とは米国の作家、弁護士のクリスチャン・ネステル・ボビーの言葉だが、その通りではないか? 自らの未来に責任を持ち、堂々と、ゆっくりコツコツでもいいから、自分らしく夢に向かって生きて行きたいものである。

画像出典「紀伊國屋書店」より

 

 

君の名は。」では酒が作品の重要ポイントとして出てくる。

お酒というものはストレスを軽減させてくれたり、飲み二ュケーションと言葉がある通り、適切に呑めばリフレッシュや人間関係が円滑になったりといい面もあるが、飲み過ぎや悪酔い、二日酔いなど悪い面もある。また、酒に弱い人、飲めない人に無理にすすめるのも良くない行為だ。アルハラ(アルコールハラスメント)、ダメゼッタイ!

 想像だが、大人になった三葉は酔うと笑い上戸(酔うとよく笑う)になるのではないかと思う。おしとやかな性格なので一緒に呑むと楽しそうだ。優しい性格のテッシーとさやちとも一緒に楽しく飲めそうだ。

瀧は喧嘩っ早い性格なので性格的に絡み酒(酔うと人に絡んでしまう)、絡まれ酒のように思う(笑)。瀧と司と高木とは大学生になって一緒に飲んだんだろうなと思う。夢を語り合ったり、愛に憧れていた……そんな会話をしながら飲んだのではないか。なんともうらやましい青春である。しかし瀧は三葉がどうしても心の中に残っていて虚しい気持ちになっていたのかもしれない。

 

筆者は大学時代を新潟で過ごしたが、新潟と言えば米どころ、淡麗辛口の日本酒の聖地である。「八海山」や「上善如水」に「鶴亀」、「久保田」などの他にも地酒が充実しており、質のいい日本酒が飲めるのだ。

筆者は最初、学科の同期とはなかなか馴染めなかったが、3年生の地質調査の進級論文で宿泊していたロッジで同期と一緒に呑んで馴染んでいった。先輩にも「お前面白いから飲み会もっと出てくれよ」と言ってもらえ、すごくうれしかったのを覚えている。それからは仲のいい先輩や友人も増え、卒業してだいぶ経った今でも付き合いのある友もいる。私にとっての人生の宝である。

 

 

世界最古の酒は蜂蜜酒(ミード、MEAD)で1万4千年ほど前と、農耕以前だったと言われている。クマに荒らされた蜂の巣から自然にできた酒であったという。

ミード、MEAD

 

画像出典元「とちさけショップ 天鷹

ネムーン(honeymoon蜜月)は、ヨーロッパでは新婚夫婦は約ひと月蜂蜜酒を造る(蜂蜜は栄養価が高いので精力、暗に子作りの意も)。

 

エジプト神話のオシリス神は麦から酒を造り、豊穣(ほうじょう)の女神イシズが人間に教えたとされ、その酒がビールである。「週刊少年ジャンプ」で連載されていた高橋和希先生の漫画「遊☆戯☆王」では「オシリスの天空竜」というモンスターが登場するが、おそらくオシリス神がモデルであろう。イシズという女性も登場するがこのキャラもここから取ったのだろう。初期の「遊☆戯☆王ファン」ならばピンと来るはずだ(笑)。近年では、大麦などの穀物と共にメソポタミアのシュメールよりエジプトにビールが伝わったと考えられている。

オシリス

画像出典「ウィキペディア(Wikipedia)」より

ローマ神話ではワインの神である酒神バッカスがおり、ギリシャ神話ではディオニューソスと呼ばれた。ワインは当時、ブドウを大きな樽に入れ、若い娘が踏んでそれから醸造していた。

旧約聖書によるとノアの方舟で、神がブドウの栽培とワインの作り方を授けたとされる。

キリスト教ではワインは「神の血」として尊ばれ、洗礼にも用いられる。

仏教においては原始仏教では禁酒だったが般若湯(はんにゃとう)として酒を用いる習慣もあり、比較的寛大である。

 イスラム教・ヒンズー教は禁酒だ。罰則として罰金やムチ打ちの刑が存在する地域もある。だがトルコなどのイスラム教の少数派アレヴィー派では飲酒は合法とされている。

 

 

口嚙み酒

 

口噛み酒は穀物を口に含み噛んでは吐き出す、また噛んでは吐き出すことを繰り返し醸造して造る。古代日本では巫女がその役目を果たす。西洋ではワインのブドウ踏みも若い女性がやっていた。若い女性という共通点が見えてくる。世界共通に男、おじさんやおばさんではダメのようだ(笑)。古代日本、アイヌ、沖縄奄美諸島中南米、アフリカなど世界中で作られていたが、アマゾン奥地でしか残存しない。また、口噛み酒は日本列島への渡来時期や文化的に日本酒の原形ではないと考えられている。

 

日本酒の起源

 

『播磨(はりま)の国風土記』に716年、干し飯が水にぬれてカビが生え、それを用いて酒を造り宴会をした記述があり、コウジカビの酵素による糖化作用で、日本酒の原型、元であると考えられている。  

名酒の里、神戸の灘地域の地層から出る「宮水」(ミネラル豊富な硬水)は「宮水三葉」の名前の元ネタなのではないか?さらに「立花」という苗字は兵庫県でも多く、もしかしたら三葉の先祖は瀧の先祖と杯を交わしていたり、前世でも出会って結ばれていたのかもしれない。そんな想像も確かなものではないかと思う。だとしたらロマンチックだ。

 

現在も吞まれている日本酒でも、名酒の酒処(さけどころ)と呼ばれる場所が存在する。

 

「三大酒処」は兵庫の灘と京都の伏見、広島の西条である。

1.兵庫の灘――辛口の男酒と呼ばれることも。水は硬水。(宮水)

菊正宗酒造

 

画像出典元「SAKE TIME

 

 

剣菱酒造

画像出典「楽天市場」より

 

 

 

 

2.京都 伏見――稲作伝わる弥生時代から酒造りがなされていた様だ。甘口で肌のようになめらかな感触で女酒とも呼ばれる。

 

玉乃光酒造

画像出典「玉乃光酒造



 

 

京姫酒造

 

画像出典「株式会社 京姫酒造」より

 

3.広島 西条――吟醸酒の里とも。軟水。

賀茂鶴酒造

画像出典「賀茂鶴直営オンラインストア」より

 

 

「四九年一睡の夢一期の栄華一杯の酒」とは戦国時代の武将、上杉謙信が残した言葉であるが、なるほど人生とは名だたる武将の中でも強かった謙信にしてみても短いと思ってしまう儚いものだったのだ。

しかし、今の超高齢化社会では80歳、90歳生きることは当たり前になってきている。謙信がこの時代を生きていたらどんなことを成し遂げていたのやら。

 

 

 

「結び」のテーマ

 

君の名は。」の「結び」のテーマには、瀧と三葉の出会い、そして視聴者達との縁、瀧と三葉が再び出会わないかとみんなで願うこと、監督の考え、作品を作り上げたスタッフの心が劇場で一つの輪になる「結び」なのではないか。

袖すり合うも他生の縁。この作品を通して、私自身、これを閲覧してくれる視聴者との縁もまた、「結び」なのである。