ロディニアのアニメブログ

アニメについて自分なりの考えを書いています

「天気の子」について思うところ

私たちの頭上一面に広がる空・・・

晴れの日もあれば雨の日もある・・・

時に恐ろしい嵐を呼び、時に一生忘れることのない美しい景色を見せてくれる空・・・・・・。

まだ我々が知り得ない事が待っているのだろうか・・・・・・。

 

アニメ映画

             「天気の子」   

                               について

 

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
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 「天気の子」の冒頭の場面は病院の一室から始まっている。ベッドで寝ている入院患者の手を取る少女。親族のようだ。その部屋から、光がビルへと差している様子が見える。                 

画像出典元「Miemie Art. ***ココロの景色***」より



なぜか少女は病室から見えた光の指すビルに行く。そして、そのビルの屋上にある鳥居で祈ると、空の上に空間移動した!? 水でできた魚のように動くものが落下しながら、落ちていく少女の周りを飛んでいる…。空の上で人が浮かぶなんて現実ではありえない、とても不思議な光景だ。この不思議さが見る人々を惹きつける。優れた導入と言える。

 

 

新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」に多大な感銘を受けた私は、同監督の作品ということで、次の作品の映画「天気の子」を鑑賞した。「君の名は。」がエンターテインメント性が強いのに対して、「天気の子」はそれよりもより「世界よりも僕と君の方が大切」な『セカイ系』と呼ばれるジャンルの印象を受けた。『セカイ系』の代表作品としては、庵野秀明(あんのひであき)監督の「新世紀エヴァンゲリオン」が挙げられることが多い。新海監督のデビュー作「ほしのこえ」もこのジャンルに属するだろう。「天気の子」は、天気と「セカイ」というテーマが織りなすセンセーショナルな物語と言えると思う。

 

 

晴れと雨

 

単純に言うと天気の良し悪しは、晴れの日と雨や嵐の日の違いと思われる。日照りが続いた後雨を待ち望むこともあるし、嵐によって海の水が拡散されて赤潮等を防ぐ効果もあるようだが・・・・・・。一般に晴れの日が天気の良い日になるだろう。晴れの日に現れる太陽を、日本ではお天道様(おてんとさま)とも言い、「お天道様が見ている」と使われ、人間の悪事に対して他のひと間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く語である。お天道様がそのまま太陽を意味することもあれば、神や仏といったものの象徴として扱われることもある。世界各地で太陽は神として祀(まつ)られ、太陽神の存在はよく知られている。

日本の場合は、天照大神アマテラスオオミカミ)が太陽の神格化とされている。『古事記』や『日本書紀』には、弟であるスサノヲノミコトの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)のために、天照大神が天の岩戸に隠れて世の中が闇に包まれたとある。

「おてんとさま」と呼ばれたのは民間で、てんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てたところから来ているようである。

 

少女、陽菜(ひな)がくぐった鳥居の神社のモデルなのではないかと思われる建物がある。その神社の絵馬が下駄というのも面白い。下駄(靴)を飛ばしてその下駄がどの面で落ちて止まるか、ちゃんと立つか、裏を見せてひっくり返ったり、横向きに倒れたかで明日の天気を占う。昔はそんなのんきな天気予報だったのだ。それは別として、その神社があるのは東京都である。

画像出典元「気象神社」より

東京都杉並区の高円寺氷川神社には境内社気象神社がある。気象神社の、祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)といい、東京大神宮、他で創造の神として祭られている高御産巣神(たかみむすびのかみ)の子で、最も有名な逸話では、岩戸に隠れた天照大神を、集まった八百万(やおよろず)の神に岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている神である。1944年(昭和19年)4月、大日本帝国陸軍の陸軍気象部(杉並区馬橋地区)の構内に造営され、気象観測員が気象予報の的中を祈願したといわれている。

画像出典元「八王子さんぽ」より



高円寺氷川神社

 

 一方、天気が悪い代表の雨についての呼び名、それは日本では一説によると400種以上もあるのだとか。その中でも気になったものを挙げてみようと思う。

霖雨(りんう:何日も降り続く雨。) 涙雨(ほんの少しだけ降る雨。) 滝落とし(「豪雨」の古い言い方。) 村雨(むらさめ;強く降ってすぐ止む雨。) 狐の嫁入り(日が照りながら降る小雨。)  などなんとなく心惹かれる言葉だ。

 

また季節や時期によっても雨の表情の違いを日本人は感じ取っていた。春の雨なら、紅雨(こうう:春、花に降りそそぐ雨。) 桜流し(桜の時期に降る雨。) 夏の雨なら、甘雨(かんう:木々を潤す恵みの雨。) 酒涙雨(さいるいう:七夕に降る雨。) 秋の雨は、白驟雨(はくしゅうう;断続的に降る激しい雨。) 冬の雨は、解霜雨(かいそうう:作物を守るように霜を溶かす雨。) 鬼洗い(大晦日に降る雨。)  など。

このように日本では、表情豊かな表現が多様に拡がっていることがわかる。日本人は、たかが雨とは考えない。雨の降る時期や量にわびさびを持たせている、世界的にも珍しい考え方、鋭い感性をしているのではないか。

 

 

魚と天気の子

 

「天気の子」の冒頭で、天空へ行った陽菜(ひな)の周りに魚の形をした水でできた生物のようなものが出てくる。陽菜の周りを小魚のように群がっているのだ。

空中を魚のような水の生き物が泳いでいる、それは何を意味するのだろう・・・・・・。

小さい頃、父の部屋で「木星には空気のような生き物がいるのではないか」という記事の古いサイエンス誌を読んだことがある。生物はその環境に適応するので地球より気体率の高い木星ではそういう生き物がいるという空想だ。地球は岩石の星なのだが、「水の惑星」とも呼ばれるように、そこには水と大気が多く存在し、それらが生命を支えている。そう考えたとき、水の生き物があってもおかしくないという発想にいたったようにも思える。

画像出典「好奇心俱楽部」より



天空で陽菜(ひな)に群がるように水でできた魚のような物体が浮遊して(泳いで?)いる。地上にも雨として落ちてくる。まるで生き物のようにである。

まるで天空に我々の知り得ない生態系が存在するような描写であるが、地上の生物との関わりはあるのだろうか?

 体が水分なので重さはあるはずだが、それに抵抗しているかのように浮かんでいる。これは地上からの高度が高く、重力が弱い位置で生活しているからではないか?

しかし陽菜も浮かんでいるのは「天気巫女」になったからとしか言い様がない。人知を超えた力、「鳥居をくぐって願ったこと」によってそうなったとしか考えられないのではないか? そしてその願いと代償の呪いが対になっているような演出である。

 カトリック教会の修道女であり、東ヨーロッパで生まれ、ノーベル平和賞も受賞し、インドで国葬されたマザー・テレサは、「私たちのすることは大海の一滴に過ぎないかもしれませんが、その一滴の水が集まって大海となるのです」と自分たちの行動を正しく改めることをこう表現している。まさに慈悲深く、他者に愛情を与え続けていたテレサらしい言葉である。が、「天気の子」での一滴の水の集まりはとんでもないことを引き起こす・・・・・・。マザー・テレサとは逆に一滴の水は災害をもたらすのだ。

 

新海監督の描く空とぶさかなとは一体何なのだろう? 空中を泳ぐ魚? 鯉のぼりもそうではないか。日本では端午の節句に鯉のぼりを立てるが、これは中国の伝説で「大河、黄河の上流に龍門という急流があり、そこを鯉が上ったら龍になる」と言う伝説から来ており、そこから鯉のぼりを立て男の子なのだから勇ましく、大物になれというメッセージになったのではないかと言われている。空中を泳ぐ魚とは未来を輝くものにするという約束事ではないか。それに対して、新海監督の描くものは破滅の未来を予言するものではないか。

 

今CO₂の過剰排出によって地球温暖化と天候異変が世界中で問題となっている。年々より大きな被害をもたらす災害が、人類の危機を感じさせる。それは人類だけではなく生きとし生けるものすべて・・・・・・。

さらにCO₂を吸収する海も、その被害を被っている。海の汚染はマイクロプラスチックだけではなく、メチル水銀放射能など様々な物質によって加速されている。人間の文明によって、初めは少しずつでも次第に大きなうねりとなって汚染されていく・・・・・・全ての自然が・・・・・・。

 

深海監督の描くところは、汚染され海に住むことを諦めた魚が最後にたどり着いたところが空なのかもしれない。(人間の手が届かないところに、天気巫女として陽菜がやってきたので、天は怒り、地上を痛めつけたのかもしれない。まさに天罰ではないか。)

 海で生きていけなくなり空へと逃げ去った魚が、天気巫女として陽菜が天気までも自由に操ることに怒り、陽菜に天罰が降りかかるように仕向けたのではないか。

人知を超えた何かが、これだけ科学が発達した現代でも、いや、科学が発達した現代だからこそ起こっているのである。新海監督はそれに警鐘を鳴らしたのではないだろうか。

これからの人間に与えられる、まるで神からの問いかけに人類はどんな答えを出すのだろう・・・・・・。そんな問いかけなのでは?

 

 

 

自分に出来ること

画像出典元「映画ひとっとび」より



「自分の役割がわかった。ありがとう帆高(ほだか)。」と陽菜(ひな)はビルの屋上の花火の下で帆高に言った。自分の存在意義、すなわち天命とでも呼ぶものだろうか。自分に他人から必要とされるものがあればうれしいものである。その実感が伝わってくる。

自分は何のために生まれてきたのか・・・・・・誰でも一度は考えることではないか。そしてそれを『おとな』になりながら見つけていく。恋人であったり、会社や組織のポジションであったり、家族であったり社会貢献であったり。「いい成績が得られる仕事は自分が一番好きな仕事をしているときだ。」とアメリカの鋼鉄実業家アンドリュー・カーネギーは言った。陽菜も自分の好きな仕事をやれているのだろうか。

誰もが他人から、人間社会から必要とされることを願っているのだと思う。

画像出典元「アニメイトタイムズ

帆高や陽菜のやっていることは、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)が横行する今の世の中でも、ひたむきに進んでいけば報われることもある・・・・・・その代償もあるという監督からのメッセージに思えてしまう。

 

 

沈みそうな国

 

イタリアの水上都市ベネチアでは、「アクア・アルタ」という高潮の季節が11月上旬にやってくる。2019年には「アクア・アルタ」でサンマルコ広場を含むベネチア市の約75%が水に浸かるという異常事態が起こった。例年では約10%だった事なのでどれだけ異常事態なのかがわかるだろう。最高水位は1m87cmに達した。過去最も水位が高かったのは、1966年の1m94cmで観測史上2番目の記録である。

 

また、海面の上昇により被害を受けている国は他にもオセアニアミクロネシアポリネシア地域の南国の島国、モルディブ諸島、ツバル、キリバスマーシャル諸島などである。これらの国々は環礁等という珊瑚でできた島が多く、海抜が1~2mの低い地域も広く分布する。

海水によって人間の住みかが奪われるだけではなく、「塩害」という海水によって農地に海水の塩が入って作物が育たなくなると言う被害もある。

これらは先進国のCO2の排出による被害だと言われている。温暖化による海面上昇の被害なのだと。

我々の何気ない日常が、人々の安心を奪っているのかもしれないのだ!

スウェーデン王立科学アカデミーは2021年のノーベル物理学賞を日本出身で米国籍の真鍋淑郎・米プリンストン大学上席研究員(90)らに授与すると発表した。物理法則をもとに、大気中の二酸化炭素(CO2)濃度が気候に与える影響を明らかにしたというのだ。温暖化の原因を科学的に示した真鍋氏らの研究は、現在の脱炭素をめぐる議論の発端となった。

 

不器用なりの名言

 

物語の終盤で、離島からの家出少年である帆高(ほだか)を助け、かくまい仕事を教えた須賀(すが)が、「まあ気にすんなよ青年。世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから」と帆高に向かってぶっきらぼうに言う。須賀なりの不器用な慰めだが、それでもなんだか納得するから不思議である。何か変だなぁと思うことが世の中には沢山ある。正義だとか正しいことだとか、正直だとか真面目だとか、報われないことの何と多いことか。世の中が狂っているという考え方が納得できることが本当に沢山ある。言葉は語句を多く尽くせばいいかというとそうではない。舌足らずの方がより心に沁(し)みることがある。不器用でも一生懸命生きているだけで素敵に思えることがある。不器用を大切にしたからこそ成功をおさめた人の言葉を何人か挙げてみようと思う。

 

 

――下手の方がいいんだ。笑い出すほど不器用だったら、それはかえって楽しいじゃないか――岡本太郎(芸術家)

 

岡本太郎大阪万博の、太陽の塔をデザインし、「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃から仏の社会学者・文化人類学者マルセル・モースの下で絵とは関係のない民俗学を学んだといわれている。パブロ・ピカソの作品を見て強い衝撃を受け、「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言し、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。「芸術は爆発だ」という言葉も有名だ。

画像出典元「毎日新聞」より

太陽の塔画像と岡本太郎

 

 

――自分、不器用ですから――高倉健(俳優) 

 

また、高倉は「いい風に吹かれたいですよ。きつい風にばかり吹かれていると、人に優しくなれないんです。」とも言っている。俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったらしいが、採用から1か月半で主役デビューが決定、その際に「高倉健」と芸名をつけられる。1977年には『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、第一回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。『鉄道員』(ぽっぽや)では、第23回日本アカデミー賞(2000年)の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。

 

 

――失敗の原因を素直に認識し「これは非常にいい体験になった」というところまで、心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。――松下幸之助パナソニック創業者)

 

世界的企業、パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げたのが、松下幸之助だ。松下は父の事業の失敗で9歳ながら丁稚奉公(でっちぼうこう)をするはめになり、次の奉公先である五大自転車での丁稚奉公で後の飲料メーカー「サントリー」創設者の鳥井信次郎と出会い影響を受ける。これからは電気の時代だと確信し、「大阪電灯株式会社」に入り、後に退社し電気ソケットの会社を設立。この頃に肺結核の一種を患うも、病を克服、それが自信につながったと言われている。一代で世界的企業を立ち上げた陰にはこんな苦労があったのだ。

 

自分の人生を成功へと導く者は苦難を苦難と思わず、前へ前へと進んでいく。自分の描く未来像をしっかり見据え、それに向かって進むのだ。そして苦しいときは色々な成長を自分に課すのだ。思いやり、優しさ、人との接し方、色々な人の考え方。

人類も楽に生き残ったのではない。

 

 

スノーボールアース」と人類

 

 地球の歴史では、地球自体が全部南極のように凍りづけになるという「スノーボールアース」という現象が数億年ごとに複数回起きており、そのたびになんと9割近い生物が絶滅してしまうのだ・・・・・・。なんとも恐ろしい現象であるが、この先の未来でも十分に起こりえる現象なのだ。我々の子孫がその危機を乗り越えられるか、科学はそこまで進歩しているだろうか・・・・・・。この映画を観て、そんなことを考えてしまった。

 

類人猿は基本、木の上で生活しているが人類(その中でも特にホモ・サピエンス)は弱かったがために森を追われ草原に出てきて、天敵を見つけるために二足歩行になり、手が自由になり色々なことを出来るようになり、さらに弱かったがために団結して敵を倒したり狩猟をしたりしてこれまで生き延びてきたのだ。人類は弱い種族であったがために知恵を使い、団結して生きてきたのだ! 現人類である「ホモ・サピエンス」は類人猿や人類(ホモ属)で一番弱い種族だからこそ生き延びたのだ。

『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るものは変化する者である』とは、『種の起源』で「進化論」を発表したイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンの言葉である。最初、ダーウィンが人間は猿の仲間から進化したと言うと世間からは馬鹿にされ、今でもあまり信じられていない国もある。しかし科学が発達するに従い支持されてきた。生命の歴史の普遍的なものが語られているように思う。

強い者が生き残るわけではないのだ! 生命の危機を何度も乗り越えたわずかな『生きもの』がやっとのことで命をつないできたのだ。

科学という知識によってこれから訪れるだろう「スノーボールアース」に立ち向かうことができるのか……人類、生命へ神から突き出された試練は大きい。

画像出典元「エンタミート」より

これから起こりえるだろう自然現象により変わり果ててしまう地球。その中でどう生きていくか。人類に出された問いは重く、答えは見えてこない。しかし、生き延びるため、全力を尽くすことが生き物の定めなのだと思う。帆高と陽菜の見つけた答えもそれなのだ。こんな狂った世界で大切な宝物を見つけた二人ならこの先、何があっても大丈夫だろう。きっとそうだ。世界のために生きるのではなく、二人のために。利己的でない二人が、懸命に命をつなごうとするなら、これが生き物の定めなのだ。たとえ全凍結しようと、生きようとすること、その時起きた自然に反しようが、生きようとすること、それが生を授かったものの定めなのだ、そう言っているような気がする。